2011年5月17日火曜日

書評: メアリアン・ウルフ(小松淳子訳) 『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』 合同出版

私が所属する2011年度柳瀬ゼミでは、卒業論文作成のための活動として、文献や論文を読み解き、それらのまとめ(提出課題)を行っています。
この投稿は、ゼミのでの提出課題の原稿・構成を元に、一部加筆・修正したものです。

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今回は、メアリアン・ウルフ著 (小松淳子訳) 「プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?」を読み、考え、感じたことをまとめています。たいへん濃い内容を取り扱っており、全項目を上手くまとめるに至らなかったため、この本の核心部分であるPartⅢ「脳が読み方を学習できない場合」を中心に、取り扱っています。

1.ディスレクシアとは
 ディスレクシアとは、「読字障害」と訳され、文字の判読や認識の際に、通常の学習者と比べ困難を伴い、習得が非常に多くの労力を伴う症状のことを指し示します。失読症、難読症などとも呼ばれ、学習障害の一種として認識されています。その直接的な要因となりうるメカニズムはいくつか提唱されていますが、まだはっきりとした原因は分かっていません。この本では、それらのメカニズムに触れつつ、私達に課せられた課題を読み解いていくことを目指しています。

1.1 ディスレクシアがある人々
 まず、ディスレクシアがあり、そのハンデにも関わらず「思いがけない」才能により社会的に成功した人々は、健常者のそういった人々と同じく、幸福な人生を送っています。しかし、実際にそれらの障害があると知らずにもがき、他人に理解されず、後ろ向きな人生を送ってきた、不幸なディスレクシアがある人々は、たとえ自らの障害と向き合い、それまでの人生と一線を画す人生を手に入れたとしても、そこには常に少年少女時代の暗い記憶がつきまとうのです。初期の発見と適切な処置がいかに重要であるか、また、この症状の原因を解き明かす研究の必然性が、はっきりと分かります。

1.2 厄介な大仕事
 いざ研究に取り掛かってみると、3つの厄介な事実が立ちはだかります。まず、文字を読む脳に求められる条件の複雑さ。次に、ディスレクシアの研究は多くの分野にまたがっているということ。そして、時には研究者ですら当惑するほど、ディスレクシアがある人々は非凡な長所と圧倒的な弱点を兼ね備えているということです。例えば、生成文法の存在を唱えたチョムスキーの言語学的立場からのアプローチはもちろん、社会階級からこの問題を取り上げるようなアプローチも存在しています。

1.3 ピラミッド構造から読み取るディスレクシア
 複雑な問題であると踏まえ原因を探っていく前に、頭の隅に置いておいて欲しいことが一つあります。英国の神経生理学者アンドリュー・エリスは、人間の進化の過程から推察するに、脳は決して言語を読むための機構を備えているわけではないと述べています。人間の場合、視覚や聴覚などの感覚器は、親から子へと受け継がれる遺伝子によって、自動的にに生得するのに対し、識字能力に関しては成長のプロセスの中で各々が独自に習得するという、別の機構を保ち続けています。言い換えるなら、ピラミッド状に形成された脳内にあるシナプスやニューロン、それらが支える脳内の回路、それらの回路同士の接続を調べる必要があり、それは必然的に識字のプロセスの解明はもとより、ディスレクシアの構造の解明にも繋がってゆくのです。

1.4 4つのタイプ
 1.3で述べた識字プロセスを示すピラミッドには、4つのレベルがあり、下から順番に「遺伝子基盤」「ニューロン・回路」「神経系の構造物」「知覚・運動・概念・言語プロセス」の要素で成立しています。それらの上には、実勢の行動レベルが存在します。これらは、これから述べる4つの原因とも深く結びついています。

1.4.1 構造物・遺伝子に関わる欠陥
 この説では、ディスレクシアは古くからある脳内の構造物のひとつに原因があるとする説です。先にも述べたように、読書や識字のみに特化した期間は脳内には存在しません。本来は別の用途で用いられていたはずの脳内構造物が連鎖と同期を繰り返し、独特の識字のための構造物から成るシステムを作り上げているのです。この章で登場するムッシュXという人物は、左視覚野と脳梁後部の連結を脳卒中で失いました。神経科医ゲシュヴィントはこれを「離断症候群」と名付け、書記言語に必要とされる2つの部分が断絶されたことに起因するものであると定義しました。しかし、心理学者のリーバーマンとシャンクワイラーの、重度聴覚障害児を対象とした実験では、言語学的に高度な音素分析スキルと認識スキルに原因があるとし、その後に行われた心理学者ヴェルティノの別の実験では、それらを同時に検証できる実験を行い、障害の原因は言語スキルにあるということを証明しました。このように実験を挙げて見るだけでもお分かりかと思いますが、実はこれらの原因を突き詰めていくと、文字を読み、判別する脳の主要構成要素(知覚・聴覚・視覚・・・etc)の全てをカバーしているのです。

1.4.2 自動性を獲得する上での問題
 この説では、ディスレクシアがある人々は、ある刺激に対して、処理をする際の速度(それも、かなり初期段階の構造物同士をつなぎ合わせる作業)が通常より遅く、迅速な処理をすることが出来ないとしています。それらの原因が脳の回路のどの部分に存在しているのかを突き止めるというよりは、どの部分に存在していても命名障害や読字障害に繋がりうる可能性を示唆しています。

1.4.3 回路間の接続障害
 この説では、読字回路内の接続も、回路内の構造物に匹敵するほど重要であるとするものです。イタリアの神経科学者達は、「島(イシュラ)」と呼ばれる広い接続領域が上手く機能していないことに言及しました。また、エール大学の研究チームは、本来なら脳内の「37野」という場所に形成される最も強力な回路の結びつきが、全く異なる場所に形成されるばかりか、音韻情報の処理中には、本来繋がっていなくてはならない左半球の言語野との繋がりがまったく見られないことを発見しました。つまり、ディスレクシアの子供たちは、全く異なる識字回路を発達させて接続し、使用していたのです。

1.4.4 異なる回路の再編成
 この説では、本来なら創造性やパターン推測、文脈認識スキルなどに用いられる右半球が、音声言語や文字言語の処理に特化した左半球の機能を補助するとしています。結論から述べるならば、ディスレクシアの人々は、言語処理を右半球に異常なまでに頼っており、機能代償という形でそれらを用いているということが分かりました。本来は左半球で処理されるべきものが右半球で処理されているわけですから、普通の人と比べてもより多くの時間を要します。そのため、ディスレクシアの人々は、識字・読解に「追いつけなくなる」という、一般からは想像しにくい現象に見舞われることとなります。

2. 遺伝子とディスレクシア

2.1 著名人とディスレクシア
 かの有名なトーマス・エジソン、ダ・ヴィンチ、アルベルト・アインシュタインもディスレクシアだったと言われています。正式な学校教育を受けていなかったり、手記が全てかがみ文字であったり、アイデアが鮮明なイメージとして浮かび上がってくるようなこれらの人々に、何か共通する事項はあるのでしょうか。彼らは左半球の機能をあえて右半球で処理していることによって、イレギュラーな構造部が存在を許していると言えます。それらの「わがまま」な細胞・回路群(本文中では「異所性」と表されています)によって、何らかの変化が、右脳のほかの領域に優位性をもたらす変化を起こしていると見る見方があります。これらをミクロ的に検証してゆくと、やがて遺伝子の壁にぶち当たります。

2.2 遺伝子にみるディスレクシアの家系
 1.4.1で、言語の認知処理は古くからの脳内構造物が関与していると述べました。つまり、一つの遺伝子による表現型からディスレクシアは発現するのではなく、複数の遺伝子領域が複雑に絡み合い、その結果として多くの表現型を示すということです。例えば、ドイツ語などの正字法がしっかりとした言語使用者でのディスレクシアの種類を見て見ると、流暢さに関連した障害がその多くを占めます。しかしながら、英語や中国語などの話者に焦点を当てると、その割合は低く保たれたままです。このように、ディスレクシアが発現するか否かについては、個々の言語間まで深く遡った遺伝子要因にまで目を向ける必要があるのです。


3. 機械と未来の可能性
未来の科学技術の発展により、出来ることと切り捨てられることが出てくるのは必然の問題といえます。筆者は、読書がもたらす恩恵に焦点を当てつつ、新しいテクノロジーがもたらす変革と時代の流れに警鐘を鳴らしています。

3.1 「より多く、より早く」は善きことか
 著者のウルフは、「より多く、より早いほうが絶対によいという前提には、大いに疑問を抱くべきだ。」と述べています。現代の人々はがコンピュータの画面上に表示される情報獲得の手段に慣れてしまったとき、我々人類がこれまで培ってきた「書記言語に洞察と喜びと苦悩と知恵を見出す能力」はどうなってしまうのでしょうか。もののコンマ数秒で知りたい情報へたどり着くことが可能な検索エンジンの台頭は、メディア・リテラシーの立場からの警告というより、それ以前の古典的なリテラシーの消失をも危惧せざるをえません。書を読むこと、コンピュータを使うこと、社会の流れがもたらした似て非なるこの2つの行為を、取捨選択してゆくのか、共存させてゆくのか、我々の手にゆだねられているという事なのです。

3.2 オンライン・リテラシーの進展から
 また、ウルフはこのようにも警告します。「子供たちの教育に関わるものは、親も教師も学者も政策決定者も皆、子供が誕生したときから大人になるまで、読字プロセスのあらゆる構成要素の準備ないし指導が理にかなった形で、きめ細かく、明示的に行われるよう最善を尽くすべきである。」美しい詞や文学に触れることで味わうことの出来る感動や、冒険記を読んでいるときの登場人物と自分を重ね合わせて胸躍る瞬間などは、検索すれば画面上に瞬時で表示される、一見すると「魅惑的」な情報に見劣りしかねません(私はそうではない、と思うならば、現代でコンピュータ抜きの生活を想像してみると良いでしょう)。そうであるならば、やはり筆者の言うとおり、発達段階のあらゆる箇所において、適切な推論や推敲を用い、自力でものを考える能力を培う必要があるといえます。教育現場、ましてや言語を主体として扱わねばならない英語教育の現場では、自力で考え、ことばを理解して使用する能力を「本当に」見据えた政策や実践がなされているのでしょうか。

3.4 超越して思考する時間
 この本のタイトルにも含まれているイカは、泳げない弱い個体=ディスレクシアの人々のたとえで使用されている。イカはすばやく泳げなければすぐに捕食されてしまうが、人類の歴史では(少なくとも不遇な扱いを受けている人々は今でも存在するものの)しぶとく、時にはその才能を開花させながらディスレクシアという病を構成に伝え続けてきました。彼らの存在意義とは、一体何なのでしょうか。何はともあれ、科学的な解明がされつつある以上、私たちは彼らの素晴らしい潜在能力を守ることを手助けしていかねばなりません。科学の進歩は、脳の適応能力さえかえるポジティブな力を持っている反面、読書という知的レパートリーを増やす素晴らしい行為を貶めるネガティブな力も併せ持っています。著者は、二者択一ではなく、共存する道こそが正しいのだと述べています。超越して思考する時間とは、脳内のニューロンの伝達速度の僅かな差のことを示し、同時にそれは人類の読書の発達の歴史とも読み取ることが出来ます。ディスレクシアがある人々の研究は、読書をするということの本質を探り、来るべき次の時代に向けての準備をすることにもなるのです。

書評: 杉原厚吉(1994) 『理科系のための英文作法』 中公新書

私が所属する2011年度柳瀬ゼミでは、卒業論文作成のための活動として、文献や論文を読み解き、それらのまとめ(提出課題)を行っています。
この投稿は、ゼミのでの提出課題の原稿・構成を元に、一部加筆・修正したものです。

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今回の課題図書である、「理科系のための英文作法」(杉原厚吉著)を読み、感じ、考えたことをまとめました。いくつかの章からの抜粋となっています。



1.文章の「つなぎ」の意識化

1.1 大原則
 著者は、英語には原則として「古い情報から新しい情報へと流れ」なくてはならないというルールが存在すると指摘しています。しかし、ルールが存在する、とは言っても、読みやすさが断然違うという点が異なるだけで、それらの用法が文法上絶対に許されないわけではありません。しかし、くだけた文章や会話の中ならばともかく、学術的な文章、つまりは他人に読ませる前提で書かれた文章は、少なくともこのルールには従わねばならない、という意図を、著者は暗に示しています。

1.2 「道標」の重要性
 1.1で述べた「情報の流れ」をスムーズにするためのテクニックには、どんなものが挙げられるでしょうか。著者が提案しているのは、文章のガイド役=「道標」を上手に活用する、ということです。私たちが「作文」に取り組む際は、大抵2つ以上の文章のまとまりの連続として捉えます。連続する二つ以上の文章を読者に読み取ってもらうためには、それぞれの文章が持つ意味を上手に渡り歩いていってもらわねばなりません。そのための「道路標識」となるのが、接続詞・副詞・副詞句・節などの表現なのです。

1.2.1 原因-結果の明示
 文章の「道路標識」足りえるためには、具体的にどういった事が必要なのでしょうか。一つには、二つ(あるいはそれ以上)の文章が示す、「原因-結果」プロセスを、読者に分かる形ではっきりと示すことです。そのために、1.2で述べた接続詞や副詞句などを、上手く配置してやらねばなりません。例えば、以下の例文をコンピュータにあまり詳しくない人が見たらどう感じるでしょう。

[1] AMD Corporation produces advanced microprocessors.
[2] AMD Corporation is thriving.

 普段私たちが使っているパソコンのCPUはAMD社製で、その製造元は大もうけしている、ということに気付けば(一部のパソコンマニアは)理解できるかも知れませんが、これでは読むほうとしても、AMD社が一体何の会社なのか、一見しただけでは分りません。[2]を読み、[1]と関連付けると言う作業を、完璧に読者任せにしてしまっているのです。では、こうしてみるとどうでしょう。

1* AMD Corporation is thriving because it produces advanced microprocessors.
2* AMD Corporation produces advanced microprocessors. For this reason, it is thriving.

 [1][2]の連続使用の用法と比較して、より因果関係がはっきりしました。接続詞becauseや、副詞句For this reasonを用いるだけで、読者にかける負担を少しでも減らす努力をすることが大事であると述べられています。この章では他にも有用な手段が幾つか紹介されていましたが、割愛します。

1.3 従来の教授法に思う
 上記の例はあくまで本著で述べられているうちの一つです。しかし、この一例のみを抜き出し、中学校や高等学校での英語教育に立ち返れってみれば、このような指導は全くなされていないように思います。それらの現場では、指導に当たる側のフォーカスは、一文内のみの文法や表記法に留まってしまっていて、文章の繋がりを滑らかにするための工夫や、ものごとをより大局的な観点から考えるための指導が、なされていないのではないでしょうか。これらの指導は、「英作文が得意な生徒」のみの特権ではないと考えます。むしろ、「英作文が苦手な生徒」こそ、苦手意識を取り払うための最初の一歩として教えられるべき事柄ではないのでしょうか。

2.文章理解のための「入れ物」構造

2.1 階層構造を知る
 次に、「入れ物」構造という言葉を理解しておく必要があります。文章を文法規則にしたがって構造化し、枠に当てはめていくと、自分が書いた文章がどういった構成になっているのかよく分かります。例えば、本文p.67に、このような二つの文があります。

[3] 日本経済の予測
[4] 日本の経済予測

 どちらも、示しているニュアンスが微妙に異なります。前後の文章のつながりを見れば、よりはっきりとするでしょう。前者は、「アメリカ経済」の予測との比較、後者は「経済予測のやり方」を英国と比較した時に用いられています。これは、前回の『日本語の作文技術』(本多勝一著)を扱った際に述べた、「親和度」との関連があるように思えます。但し、こちらの場合はどちらか一方が不自然というわけではなく、両方の意味で取れるため、より「たちが悪い」表現であると言えるのかも知れません。簡単な表現にこそ落とし穴があるというのは、まさにこのことだと言えます。入れ物は、どんな形にでも変形しうる事を、肝に銘じておかねばなりません。

2.2 仮定の及ぼす範囲を知る
 仮定の表現は学術論文に必要不可欠なものでありますが、それを用いる際にも細心の注意を払わなくてはなりません。以下の例からは、あたかも[C]に仮定の効力が及んでいないかのように思われます。

[5]  If [A], / (then) [B]. [C].

より分かりやすい、誤解を招かない表記法として、

[6] Suppose [A]. /  [B] and [C].

※意味上の区切れを分かりやすくするために、スラッシュ[/]を入れました。

[6]のような記述が提案されています。[5]は、やはり作文者の「独りよがり」による、情報伝達の失敗例と言えます。勝手に[A]の効力が及ぶ範囲を決めてしまわれては、読者も読む気が失せてしまうでしょう。しばしば仮定法は複雑な文法構造をとりますから、そちらばかりに気を取られないようにしなくてはなりません。

3. 動詞の果たす役割

3.1 「五文型神話」の崩壊
 中学校・高等学校における英語の授業では、よく五文型の暗記をするように言われます(私も実際、それらを覚えるのに大変苦労しました)。しかしながら、ともすれば英語の構造はすべて五文型によって定義されうるというような「神話」を、著者は真っ向から否定しています。Hornbyの辞書を引き合いに出しながら、著者はこう述べます。

「...不自然な表現に陥らないために利用できるものは、何でも貪欲に利用すべきであろう、...」

 Hornbyの辞書を用いた解説では、「神話」が全ての英語表現をカバーするものではないことを如実に示しています。普段、私たちが身近に接しているはずのstudy, learn, understand, knowといった単語ですら、すでに範疇からはみ出しているのですから、五文型での完全な判別・解析というのは、いささか無謀な挑戦であるように思えます。

3.2 安全第一が求められる理由
 それでは、やはり正確な文章表現や単語使用に基づいた英作文を、中学校・高等学校の生徒たちに求めるのは、無謀な事なのでしょうか。著者は、何度も雪道を歩くときに例えて、「安全」な方法を取るように呼びかけています。完璧なものを教授するには難しいにしても、「読める」「分かる」ものなら、何とか努力して書けるかも知れない。しかし、そこには常に、章の冒頭で述べられているような「変な日本語」を書きよこした外国人のように書いてしまう(書かせてしまう)可能性がある。そのことを常に頭に置きつつ、活用できる辞書やソースは最大限に使う。辞書を丸写しして、分かったような英作文をするより、こちらの考え方の方が現実を見据えているように思えます。


4. 新・旧情報を区別せよ

4.1 議論を弄ぶな
 繰り返しになってしまいますが、1.2と1.3で述べたように、文章を作成する際、旧情報から新情報へと論の展開が流れている事に、常に気を配らなくてはなりません。論文作成などの長めの作文を行う際には、文章が二つ、三つ以上連続して重なることがほとんどです。前の文で言及されたことを、次の文で受け、さらに論を組み立てるならば、そのことを示す手がかりは「分かりやすく」「前方へ」「省略せずに」明示しなくてはなりません。その要素が欠けている文章は、たとえ正しいことを述べていても、冗長に聞こえたり、議論を弄んでいる「分かりにくい」悪文他なりません。

4.2 説明は短く、分かりやすく
 「前の文を受け」た連続する次の文章では、受けたものを定冠詞・指示形容詞・指示代名詞・冠詞+形容詞・関係代名詞の、五つの表現で受けることが多いと言えます。それぞれの特徴を表すと、

定冠詞・・・説明:短い(theのみ)、言及元:分かりやすい
指示代名詞・・・説明:短い(this/that)、言及元:分かりやすい
指示形容詞・・・説明:短い(this/that/it)、言及元:繰り返し使用すると混乱の危険性あり
冠詞+形容詞・・・説明:短い場合が多い(i.e. The above-mentioned)、言及元:分かりやすい
関係代名詞・・・説明:長い(wh構文では説明的要素が付加される)、言及元:大変分かりやすい

となります。しかし、著者は分かりにくくなる可能性が少しでもあるならば、繰り返しの表現を思い切って使用するべきであると述べています。簡潔な表現≠情報が詰め込まれた一文ではないことは、ここまでの考察で十分に理解できた。「一台の台車には一つの荷物」。こういった観点から見たときに、最も優れたバランス感のある文が、分かりやすい一文に値するのではないでしょうか。

5. 視点の重要性

5.1 受動・能動体の文章に注意
 主語に対する「共感度」とは、聞きなれない言葉かも知れません。能動態と受動態の差とは、主語への、話し手・書き手の心理的な距離を間接的に表したものだと筆者は述べています。

[7] 太郎が花子のペンを使った。
[8] 花子は太郎にペンを使われた。

[7]の能動態の文章では、話し手/書き手から主語(太郎)・目的語(花子)への心的な近さは同等、あるいは主語の方が大きい(筆者は太郎=E(S)≧E(O)=花子 と不等式を用いて表現しています)と言えます。しかし、能動態になると、文章中での話し手/書き手の視点は一変し、花子に対してのフォーカスが圧倒的に強まります(E(O)>E(S))。学術論文では、このテクニックを有効に使えば、読者に伝えたいことを強調して伝えることも可能かもしれません。しかし、一方で中立的な立場での理論展開を求められる箇所では、受動態の安直な使用は控えるべきでしょう。これらの違いは、日本語での表現でも意外に気付かないものではないでしょうか。

5.2 移動はご法度
 本文中で最も衝撃的だった箇所はここです。分詞構文・to不定詞の用法に伴った視点移動にも驚かされましたが、何よりも所有格に関する視点移動は盲点であったと言わざるを得ません。

[9] Hoffmann was visited by Mary.
[10] Hoffmann was visited by his student.
[11] Mary’s professor was visited by Mary.

仮説6.5 ・・・ 名詞Xの所有格を用いた表現X's Yに対しては、E(X)>E(Y)が成り立つ。

[9]、[10]は受動態の文章であり、Hoffmannに焦点が当てられていることと、Maryとの関係性に破綻は生じていない(どれも、Hoffmannに焦点を敢えて当てた文章である)。が、[11]は仮説6.5と対照して見ると、矛盾が生じる。つまり、

①Mary’s professor → 仮説6.5より、Mary > Hoffmann
②Mary’s professor (=Hoffmann) was visited by Mary.
→受動態の法則(E(O)>E(S))から、Mary's professor = Hoffmann > Mary

ということです。やはり、①と②は明らかに破綻しています。このような数学的証明をもってして初めて、この文章の不可解さが説明できたのです。悲しいことですが、このように体系的に説明されても(いや、されるからこそかも知れません)、文系と呼ばれる私たちは、理解する事が難しいように思えます。そして、フィーリングでの解決などという、無茶なやり方に走ってしまいがちです。改めて、感情と理論のバランスを考えて見る良い機会になったと思いました。

2011年4月16日土曜日

書評: 本多勝一(1982) 『日本語のための作文技術』 朝日文庫


私が所属する2011年度柳瀬ゼミでは、卒業論文作成のための活動として、文献や論文を読み解き、それらのまとめ(提出課題)を行っています。
この投稿は、ゼミのでの提出課題の原稿・構成を元に、一部加筆・修正したものです。

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今回は、本多勝一(1982) 「日本語のための作文技術」(朝日文庫)を取り扱います。
実際に読んで見ると分かりますが、書かれた当時の年代を感じさせる文体、例文が多いので、
ブログ掲載にあたっては一部改変しています。
日本語での作文にあたって、文章をより良くするティップスがふんだんに盛り込まれており、一読に値する本であることは間違いありません。



1. より良い文章を書くために

 本多勝一著『日本語の作文技術』では、細かな日本語の修辞構成から、上手い文体が決まって持っているリズム感に関する記述まで、日本語の文章を書く上で必要な要旨を幅広く取り扱っています。客観的な目線から、綿密に言語使用について記述されたこの本を、日本語使用に幼いころから馴染んでいる多くの人々は、一見すると敬遠してしまうかも知れません。しかしながら、点の打ち方や段落の適切な配置、無神経な文章表現などについての項を見れば、その考えを改めなくてはならないと実感するでしょう。以下、この図書を読んで思ったことをまとめてゆきたいと思います。


1.1 作文技術と言語の関係

  作文には、言語という概念が常に付きまとっています。著者は「言語とはすなわちその社会の倫理である。」(本文p.20、8行目)と述べています。社会の倫理、つまり、それに含有されている「文化」を背景にした構造の元に成り立っている分野であると言い換えることが出来るでしょう。この事実が、日本語を用いた作文技術にどういった影響を及ぼしているのでしょうか。統語的な観点や修辞法のまとめから、それらを検証してゆきます。


1.1.1 修飾する・されるコトバの四原則

 著者は、修飾・非修飾に焦点を置いた言語使用には、四つの原則が適用されると述べています。

(1) 節を先にし、句を後にまわす
(2) 長い修飾語は前に、短い修飾語は後に
(3) (2)に加え、大状況(重大なもの)から小状況(重大でないもの)へ
(4) (修飾語句の並列的使用の際に)親和度の強弱による配置の転換

 いずれも小難しいことを述べているように思えます。しかし、実際文章にして紙に書いてみると、悪例として本文中で紹介されている文章は、どこか感覚的に「おかしい」と思えるものがほとんどです。
以下の例は原則(4)を、オリジナルの例文に適用したものです。

A. 美しい後頭部が光るガラスに反射した。
B.  光るガラスに美しい後頭部が反射した。

これらは、X./美しい後頭部が/、Y./光るガラスに/、Z./反射した/の三つに分けることができます。XとYの修飾語句は、Zに対して並列的に用いられているため、どちらが先に来ても良いはずですが、明らかにBの例文の方が、すんなりと頭に入ってきます。Aの例文中の「後頭部」と「光る」の親和性が高いため、XとYの順番を入れ替え、読者のミスリードを誘発する可能性を下げたBの方が、よりリーダビリティが高いのです。
 私たちは、このように言語化された文章表現のルールにはたいへん不慣れです。フィーリングで、適当に、なんとなく合っているような、そのような文体で書くことは出来ても、普段から意識的にモニタリング出来ていない上記の原則などを提示された場合、戸惑ってしまうばかりでしょう。その能力をトレーニングし、産出した文章へのチェック能力を強化することが、複雑な修辞語句を操るためのひとつのコツではないでしょうか。
 
1.1.2 句読点の使用術

 句読点は、並列や同格の語の間で使用する事が推奨されます。しかし、当然ながら、本文中にあるように「カール・マルクス・アダム・スミス・チャールズ・R ・ダーウィン」と記述してしまっては、記述のルールが破綻してしまい、読者としても書き手としても、本当に伝えたいことが伝わらないことは明白です。分かりやすい句読点の打ち方のためには、「、」と「・」を上手く使い分ける必要があると言えるでしょう。特に「、」を使用する際は、構文上の重要な観点から打たれた「、」の機能を破壊してしまうような乱用をなるべく避けなければなりません。



1.1.3 漢字とカナとひらがな

 これも、読者が日本語を読む際の「快適さ」を考慮しなくてはならない問題です。三種類の文字を同時に表示し使用出来ると言うことは、多様な文章表現への可能性と同時に、上手い組み合わせを考えなければ、内容理解の際に、読み手にとって大変読みにくく、かつ、不快な文章となる危険性を孕んでいると言えます。漢字とカナとひらがなの混用を考える際に、真っ先に私の頭に浮かんできたことは、コンピュータの文字入力ソフトウェアの存在です。ここ数十年で、文字変換ソフトは性能面で大きな進歩を遂げましたが、それを使う側の人間の能力はどうでしょうか。いたずらにエンターキーを押す前に、立ち止まって自分の文章を見直してみることを勧めます。



1.2  読者に分かる文章を

 1.1.1から1.1.3までの項目から、どんな表現や修辞法であれ、その根底には読者の視点というものが存在しているということが分かりました。しかし、「読みやすい文章」とは、そういった修辞的技術の習得と発展へと全てが帰結されうるものではありません。より視点を広げ、書き手のセンスが問われるようなパターンもいくつか挙げられています。



1.2.1 既成の表現から離れる

 まとめてしまうならば、「かっこをつけた」文章はあまり良い印象は持たれない、ということに尽きるということです。手アカと本文中では表現していますが、そういった言葉の中には、かえって文章を陳腐なものに成り下がらせてしまう要素が含まれている、と筆者は指摘しています。既成(Ready-made)の使い古された表現は、ついつい私たちも多用してしまいがちではないでしょうか。ウィットに富んでいることよりも、実直で、その表現に適切だと思えるような表現を心がけたいと思います。



1.2.2 繰り返しに留意する


 この章を読み、自分の文章を見直していると「~ました。」「~と言えます。」この二つの語尾で文章が終わっていることが多いという事実に気付きました。普段からしっかりと見直しているように思えて、一文飛んで見てみるとまた繰り返しの表現を使っていることはザラにあります。このような似たような表現が続けば、文章とそれに伴う意味がぶつ切りにされ、理解するのに多大な労力が必要となってきます。また、逆接はなるべく使用しない、複数回使用する場合は表現を変える、こんな基礎的な事も、案外忘れられがちではないでしょうか。



1.2.3 落語家に学ぶ


 本当に面白い表現は、「文章が笑っていない」ことである、と筆者は指摘します。落語家は、面白い場面を本当に正直に、真面目に演じます。そこでは、「笑い」の内容で投影されるべきなのは「笑い」だけであり、そこに付随する言葉は余計なものとして扱われるべきであるという信念が存在します。これは、文章表現においても同じであるということです。オノマトペや、事実に基づかない誇大妄想的な表現より、馬鹿正直に、事実に向き合った文章の方が、かえって味があり、評価されるということに繋がると言うことです。



1.3 言語の「適正な」使用から


 1.1から1.2にかけて、マクロ的・ミクロ的な視点から作文技術の重要性をまとめてきました。では、最初の質問である、言語と作文技術の関係について、どういった事が分かったでしょうか。まず、言語を用いた作文の際には、書き手の集中力は読み手の理解の「快適さ」をいかに高めるかといったことに帰結する(すべき)といったことが、どうやら共通している事項のように思えます。また、修飾語・非修飾語の関係性からは、日本語(のみとはもちろん断言できません)が持つ、修飾に関する統語システムの複雑さを認めることができました。
 それでは、英語教育、とりわけ、英文和訳や和文英訳の指導に当たる際に、これらの事項は十分考慮されているのでしょうか。訳文という作業の中に、複雑な構文構造を持つ日本語表現と、それとは全く系統を異にする英語表現との間の溝を埋めるための指導は、やはり是が非でもなされるべきではないかと思います。それらを考慮していない指導は、日本語での作文能力のますますの停滞と、西洋的尺度を伴った日本語表現の蹂躙に他なりません。


2 「技術」の先を見据えて

2.1 読ませる≠美辞麗句を並べる

 論文は、素人でも分かるように、玄人でも楽しんで読める内容でなくてはなりません。特に何の予備知識も無い読者を対象に文章を書くのであれば、大変な骨の折れる作業となります。そんな時、
1.2.1で述べたように、ついつい美辞麗句や使いまわされた表現へと傾倒しがちになってしまいます。しかし、文字表現は、映像や音声と異なり、伝えられる情報は限定的な反面、そのインパクト次第ではテレビやラジオなどの情報複合的な伝達媒体に劣らない活用の仕方も十分に考えられます。文字情報は必要最低限かつ、最も効率が良く、読者の目を惹くものであるべきと言えます。

2.2 裏付け・材料はしっかりと

 ここで筆者が述べたいのは、具体的≠現実的であるということです。残念ながら、本書で述べられている例は、執筆された時代背景などから、私にとってはやや分かりにくいものとなっています。ここでの「現実的」とは、深い裏付けや取材を伴わない「表層的な解決」にベクトルを向けた表現であり、「具体的」とは、知識やそれが指し示す「具体」に伴う事実の確認(時に数十~数百倍に及ぶ)を経た「実証的な解決」と定義することができるのではないでしょうか。実際に文面に起こすのは10パーセントでも、残りの90パーセントをしっかりと裏付けておくことこそ、事実の揺らぎのない作文を書く大事な要素ではないでしょうか。

2.3 氾濫する「良い」「悪い」文章

 インターネット上や雑誌には、様々な形式の日本語の文章が掲載されています。玉石混交のそれらの中から、この本の内容に沿って「良い」「悪い」選り分けていった場合、果たしてどれほどの文章が「良い」文章として選別されるのでしょうか。そして、普段私たちが接している文章、産出している文章は、健全な構成を伴っているかどうか、一体誰がチェック出来るのでしょうか。文章は意思を持ちません。書いた本人と読み手の、時空を超えたコミュニケーションが存在するのみです。情報の選び手である私たちは、しっかりとした文章を選び取り、内容を評価する能力を身につけるべきではないでしょうか。
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少しだけ思ったこと。

冒頭で、「執筆された時代背景から、現代にはそぐわない表現を一部変更した」と述べました。
当時(80年代)は、学生紛争の名残が残り(一部ではまだ活発に活動していたようですが)、まだ日本が
「ポスト戦後」「戦後○○年」という時代の括りの中に居た時代でした。
どうにも、この時代には大変惹かれるものがあるように思えてなりません。
もちろん、当時の社会機運や情勢を知っている世代からすれば、現代の日本社会も捨てたものではない(現に、ここ数ヶ月の、東北大震災に対しての日本人の働きは国内外から高く評価されています)、と言うかもしれません。しかし、過去の社会の延長線上にあるはずの現代社会は、当時の社会から何を学び取ったのでしょう。

急な、あるいは緩やかな変化はどのように訪れたのか?
現代の社会の原型となった、戦後から高度経済成長期、不況の時代とは何だったのか?
1990年生まれの私が、憧憬の態度を持ち、当時の社会背景に触れることに興味を持つのは何故か?

4月14日に、広島商工会議所で開催された広大夕学講座にて、姜尚中東京大学教授のサテライト講義を受講しました。
そこで考えたこと、思ったことは、上記の疑問の解決の糸口になるような気がしました。ぜひ時間を見つけてまとめたいと思います。

書評: 酒井聡樹(2007) 『これからレポート・卒論を書く若者のために』 共立出版

私が所属する2011年度柳瀬ゼミでは、卒業論文作成のための活動として、文献や論文を読み解き、それらのまとめ(提出課題)を行っています。
この投稿は、ゼミのでの提出課題の原稿・構成を元に、一部加筆・修正したものです。

論理的な文章とは何か?長い文章を書くときのコツは?それを論文やレポートにどう生かすか?
今回は、酒井聡樹(2007) 「これからレポート・卒論を書く若者のために」(共立出版)の書評に取り組みました。


1.ロジカルな論文構成を目指す

1.1. 押さえておくべき3つの条件

  酒井聡樹(2007)「これからレポート・卒論を書く若者のために」では、その第一章の部分で、レポートや卒論を執筆する上で重要な、3つのポイントを挙げています。それぞれ順番に考察し、私なりの解釈を述べてゆきたいと思います。

1.1.1 学術的であるか

  たとえそれが社会的な問題や大衆に広く受けられそうな問題であったとしても、動機付けや問題提起がなされていない限り、学術的な論文であるとは言いがたいでしょう。動機付けというのは、個人の熱意や興味に裏打ちされたものではなく、客観的に事実をしっかりと見据えた上で、問題や課題を見極めるためにその論 文を書くに足る理由を明示することです。ここを疎かにすると、「学術論文」から、「読書感想文」や「大学生の自由研究」まで、研究そのものの品位を 落とすことに繋がりかねません。基本的なことではありますが、問題提起の際には頭に入れておく必要があると言えます。

1.1.2 興味を持って取り組めるか

  当然、執筆者のモチベーションにも影響を与えるポイントであることは間違いありません。しかしながら、研究というものは、自分本位で進めるものでは決してありません。そこに自分の論文を読む読者を想定しなくてはなりません。自分が興味を持てない問題は、その提起した問題に興味が無い一般大衆が論文を読んで も、面白くないばかりか、おそらく見向きもされないでしょう。そういった読者を惹きつける小ネタとは別次元の話です。もちろん、自分の興味≠相手の興味ではあるものの、相手の興味の前提条件として、自分の興味は存在しなくてはならないと言えるでしょう。

1.1.3 解答できる見通しが立つこか

  より現実的な問題として、学術論文の最後には、必ずその成果を報告(結論付け)しなくてはなりません。課題図書の中でも述べられていますが、単なるデータ の羅列をまとめたかのように見せかけたものや、現実離れした結論(e.g. 日本人の身体能力向上のために、政府予算100億をかけた牛タン定食の全国的な即時無料化が求められている、など)は求められていません。その問題に対し て、完全な、あるいは一部、さらには最も基本的な論理や疑問を提示するだけでも、筋さえ通っていれば良いのです。ただし、考えるコツとしては、身近な視点 を大事にすることではないでしょうか。日常やふとした瞬間に疑問に思ったこと、矛盾に気付いたこと、おかしいと思ったこと、それらを糸口に見通しを立てれ ば、あまりにも現実と乖離したような結論にたどり着くことは、ほぼ皆無ではないでしょうか。

1.2 テーマ設定のコツ

 多くの卒論に臨む若者(私も!)を苦しませているのが、このテーマ設定だと言えます。最初の難関とも言うべき、この重要な事項を乗り切るために、必要な心構えとはどういったことなのでしょうか。

1.2.1 「ひっかかり」を探せ

  テーマ設定のために必要なのは、ある種の「ひっかかり」ではないでしょうか。1.1.3でも述べましたが、日常的な出来事の中で、あるいは興味が沸いた文献を読んでいて、疑問に思うことや、違った解釈が出来ることに気付いたら、もうそれはテーマ設定への道しるべにたどり着いたことになります。しかし、闇雲 に興味をそそられるだけで、文献などに飛びついていては、まず時間が足りません。さらには、大量の情報に対する頭の処理が追いつかないばかりか、手段と目 的がいつしか逆になっていた、そんな悲劇もあるかも知れません。自分の今現在持っている知識と、興味が持てそうな分野を関連させていくこと、バランスを欠 いた興味や関心は削ぎ落としていくことが大事なのではないでしょうか。

1.2.2 思考の反芻を大切に

  ある文献を読み、内容を咀嚼していくことは、あたかも自分の頭が良くなったかのような錯覚を起こさせるときがあります。学術論文作成の時だけに限ったこと ではないのですが、一つの論文や本から受け取れる情報は大変限られています。もちろん、意味や問題に関連する解法を咀嚼して、自分の知識として活用するこ とは大いに推奨されるべきです。しかし、それらの知識が本当の意味で生きてくるのは、他の知識と関連付けられた瞬間ではないでしょうか。レポートはもちろ ん卒業論文の作成は、あらゆる学術的知識や実験データをリンクさせていく作業でもあるのです。思考の反芻とは、咀嚼し、また他の知識との関連付けも視野に 入れた再検討を行い、さらに思考を深めていく一連のプロセスのことを指します。

1.2.3 情報を整理するために

  情報の整理のキーワードには、情報の視覚化および常設化が必要ではないか、と読み取ることができました。視覚化とは、読んで字のごとく、メモやコンピュー ターソフトウェアなどを用いて、混沌とした情報や知識の海から、ある一定の秩序立った体系をを自らの手で描き出すことにあります。また、ブレインストーミ ングやKJ方、カードを用いた連想方など、さまざまな手段を駆使し、記憶を常に最新に保ち、手の届く範囲にあらゆる情報を置いておくこと=「手がかりの常設化」も求め られます。

1.3 構想を練るための材料

  テーマがおおまかに絞れてきたら、その学術論文の縮図ともいえる構想を練る段階に入ります。論文は感想文や個人の覚書とは異なり、「複雑」な文章体系のもとに成り立っている、「簡潔」な文書でなくてはなりません。構想とは、あるひとつの遊園地や行楽地を案内するための、薄いパンフレットとでも言うべきもので しょう。そこに必要な要素を検証してゆきます。

1.3.1 結論の妥当性

  結論は、問題提起と軸を共にし、あくまで論理的欠陥を排除しなくてはなりません。自明のことですが、Q-Aの関係が崩れてしまえば、その時点で論理が破綻 してしまいます。著者の酒井さんは、逆向きから考えること、つまり結論から必要なデータを見越すことが大事であると著書の中で述べています。 Backward Designについて前回の課題では触れましたが、より理論的かつ柔軟なBackward Designが必要であると言えるかもしれません。また、両者の違いについても、考察の余地があると思われます。

※Backward Designについては、私の指導教官の柳瀬先生がブログ「英語教育の哲学的探求」にて、
その問題点と今後の展望を指摘してくださっています。ぜひお読み下さい。
『Backward Designはなぜ失敗しうるのか』

1.3.2 骨格の構成

  骨格には「問題提起」のための「取り組む問題」「問題意識」、「解答への道筋」を立てるための「着眼点」『データ・実験」、そして「問題解決」のための 「結論」の3点に大別することが出来ます。いずれにせよ、高校の小論文の時間で学習した「序論」「本論(論拠となるサポートセンテンス)」「結論」の構成 との類似性を見出すことができます。加えて、学術論文では、読者に伝えたい研究の結果を、すっきりとまとまった形で網羅するためには、構造化だけでなく、 そのレポートによって何が課題として意識されているのか、という時点から明確に示しておく必要があります。

1.3.3 見えてきた課題

  骨格を形成するにあたり、そのプロセスのどこかで行き詰まってしまった場合、研究対象となるものの、学術的な意義の低さに原因を求める場合と、研究者自身 の学術的な知識の不足に原因を求める場合とがあります。前者の場合、指導教員や学友との対話、あるいは個人での思考の反駁によってその意義の低さに気がつ くことがあるかも知れませんが、後者の場合はなかなか自身で気づくことができない場合が多いように思えます。ですから、骨格の構築の段階で躓いてしまうな らば、自身の知識体系を、もう一度見直すよう警告をしてくれているのではないでしょうか。ある意味では執筆前の最後の安全装置となりうるようにも思います。


2. わかりやすい文章構成を目指すために

2.1 「伝える」ことは容易くない

  この部分に関しては、前回の課題内容と被る部分が多いと思いました。論文は読者の視点に立った上で、内容を進めていかなくてはなりません。リーダー・フレンドリーであるということは、

・読者と話者の2つの視点を常に持ち、
・「話者は何を知っているのだろう」
・「どのような解説を加えれば、読者は内容をこち らの思惑どおり理解してくれるだろう」
・「整理はしやすいだろうか」

などといった観点から俯瞰してみることが、重要だと言えます。

2.2 文の繋がりや修飾語を意識せよ

  第3部では、主に日本語の修飾技術や文のつながり(coherence)に注目した解説がなされています。これほどまで日本語の修飾や用法に着目した解説 を見たのは初めてだったので、非常に新鮮な気持ちで読むことができました。修飾語の順番、文章の優先度に拠った文脈整理、無駄な情報の削減や複数の文脈に 跨る紛らわしい表現の抑制など、自分の文章にも所々当てはまるような指摘が多くなされていました。読み込めば読み込むほど新しい発見がある部分でした。

2.3 圧縮ファイルとの共通性

 文章を簡略化することは、ファイルを圧縮することと似ているようにも思えます(ちょっと強引?)。Zip形式のファイルなどは、以下のような方式でサイズを圧縮しています。

 「AAAAAMMMMMDDDDGGGG」→「A5M5D4G4」

1文字1キロバイトと仮に考えると、18キロバイトが8キロバイトまで圧縮されています。必要な情報はしっかりと携えたまま、効率のよい記述方法で容量を少なくしています。もちろん、そのまま比較するのには無理があるかもしれませんが、「(説得に足る)最低限の情報はしっかり、かつわかりやすく。」この原則は、理系的な観点から見てみるとわかりやすいのかも知れません。(上記の例は、圧縮のプロセスを簡略化したものです。概念そのものが間違っている可能性があれば、ご指摘願います。)

次回は、本多勝一(1982)『日本語の作文技術』(朝日文庫)を取り扱います。
これもまた、是非一読するに値する有益な本だと言えます。