私が所属する2011年度柳瀬ゼミでは、卒業論文作成のための活動として、文献や論文を読み解き、それらのまとめ(提出課題)を行っています。
この投稿は、ゼミのでの提出課題の原稿・構成を元に、一部加筆・修正したものです。
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今回は、本多勝一(1982) 「日本語のための作文技術」(朝日文庫)を取り扱います。
実際に読んで見ると分かりますが、書かれた当時の年代を感じさせる文体、例文が多いので、
ブログ掲載にあたっては一部改変しています。
日本語での作文にあたって、文章をより良くするティップスがふんだんに盛り込まれており、一読に値する本であることは間違いありません。
1. より良い文章を書くために
本多勝一著『日本語の作文技術』では、細かな日本語の修辞構成から、上手い文体が決まって持っているリズム感に関する記述まで、日本語の文章を書く上で必要な要旨を幅広く取り扱っています。客観的な目線から、綿密に言語使用について記述されたこの本を、日本語使用に幼いころから馴染んでいる多くの人々は、一見すると敬遠してしまうかも知れません。しかしながら、点の打ち方や段落の適切な配置、無神経な文章表現などについての項を見れば、その考えを改めなくてはならないと実感するでしょう。以下、この図書を読んで思ったことをまとめてゆきたいと思います。
1.1 作文技術と言語の関係
作文には、言語という概念が常に付きまとっています。著者は「言語とはすなわちその社会の倫理である。」(本文p.20、8行目)と述べています。社会の倫理、つまり、それに含有されている「文化」を背景にした構造の元に成り立っている分野であると言い換えることが出来るでしょう。この事実が、日本語を用いた作文技術にどういった影響を及ぼしているのでしょうか。統語的な観点や修辞法のまとめから、それらを検証してゆきます。
1.1.1 修飾する・されるコトバの四原則
著者は、修飾・非修飾に焦点を置いた言語使用には、四つの原則が適用されると述べています。
(1) 節を先にし、句を後にまわす
(2) 長い修飾語は前に、短い修飾語は後に
(3) (2)に加え、大状況(重大なもの)から小状況(重大でないもの)へ
(4) (修飾語句の並列的使用の際に)親和度の強弱による配置の転換
いずれも小難しいことを述べているように思えます。しかし、実際文章にして紙に書いてみると、悪例として本文中で紹介されている文章は、どこか感覚的に「おかしい」と思えるものがほとんどです。
以下の例は原則(4)を、オリジナルの例文に適用したものです。
A. 美しい後頭部が光るガラスに反射した。
B. 光るガラスに美しい後頭部が反射した。
これらは、X./美しい後頭部が/、Y./光るガラスに/、Z./反射した/の三つに分けることができます。XとYの修飾語句は、Zに対して並列的に用いられているため、どちらが先に来ても良いはずですが、明らかにBの例文の方が、すんなりと頭に入ってきます。Aの例文中の「後頭部」と「光る」の親和性が高いため、XとYの順番を入れ替え、読者のミスリードを誘発する可能性を下げたBの方が、よりリーダビリティが高いのです。
私たちは、このように言語化された文章表現のルールにはたいへん不慣れです。フィーリングで、適当に、なんとなく合っているような、そのような文体で書くことは出来ても、普段から意識的にモニタリング出来ていない上記の原則などを提示された場合、戸惑ってしまうばかりでしょう。その能力をトレーニングし、産出した文章へのチェック能力を強化することが、複雑な修辞語句を操るためのひとつのコツではないでしょうか。
1.1.2 句読点の使用術
句読点は、並列や同格の語の間で使用する事が推奨されます。しかし、当然ながら、本文中にあるように「カール・マルクス・アダム・スミス・チャールズ・R ・ダーウィン」と記述してしまっては、記述のルールが破綻してしまい、読者としても書き手としても、本当に伝えたいことが伝わらないことは明白です。分かりやすい句読点の打ち方のためには、「、」と「・」を上手く使い分ける必要があると言えるでしょう。特に「、」を使用する際は、構文上の重要な観点から打たれた「、」の機能を破壊してしまうような乱用をなるべく避けなければなりません。
1.1.3 漢字とカナとひらがな
これも、読者が日本語を読む際の「快適さ」を考慮しなくてはならない問題です。三種類の文字を同時に表示し使用出来ると言うことは、多様な文章表現への可能性と同時に、上手い組み合わせを考えなければ、内容理解の際に、読み手にとって大変読みにくく、かつ、不快な文章となる危険性を孕んでいると言えます。漢字とカナとひらがなの混用を考える際に、真っ先に私の頭に浮かんできたことは、コンピュータの文字入力ソフトウェアの存在です。ここ数十年で、文字変換ソフトは性能面で大きな進歩を遂げましたが、それを使う側の人間の能力はどうでしょうか。いたずらにエンターキーを押す前に、立ち止まって自分の文章を見直してみることを勧めます。
1.2 読者に分かる文章を
1.1.1から1.1.3までの項目から、どんな表現や修辞法であれ、その根底には読者の視点というものが存在しているということが分かりました。しかし、「読みやすい文章」とは、そういった修辞的技術の習得と発展へと全てが帰結されうるものではありません。より視点を広げ、書き手のセンスが問われるようなパターンもいくつか挙げられています。
1.2.1 既成の表現から離れる
まとめてしまうならば、「かっこをつけた」文章はあまり良い印象は持たれない、ということに尽きるということです。手アカと本文中では表現していますが、そういった言葉の中には、かえって文章を陳腐なものに成り下がらせてしまう要素が含まれている、と筆者は指摘しています。既成(Ready-made)の使い古された表現は、ついつい私たちも多用してしまいがちではないでしょうか。ウィットに富んでいることよりも、実直で、その表現に適切だと思えるような表現を心がけたいと思います。
1.2.2 繰り返しに留意する
この章を読み、自分の文章を見直していると「~ました。」「~と言えます。」この二つの語尾で文章が終わっていることが多いという事実に気付きました。普段からしっかりと見直しているように思えて、一文飛んで見てみるとまた繰り返しの表現を使っていることはザラにあります。このような似たような表現が続けば、文章とそれに伴う意味がぶつ切りにされ、理解するのに多大な労力が必要となってきます。また、逆接はなるべく使用しない、複数回使用する場合は表現を変える、こんな基礎的な事も、案外忘れられがちではないでしょうか。
1.2.3 落語家に学ぶ
本当に面白い表現は、「文章が笑っていない」ことである、と筆者は指摘します。落語家は、面白い場面を本当に正直に、真面目に演じます。そこでは、「笑い」の内容で投影されるべきなのは「笑い」だけであり、そこに付随する言葉は余計なものとして扱われるべきであるという信念が存在します。これは、文章表現においても同じであるということです。オノマトペや、事実に基づかない誇大妄想的な表現より、馬鹿正直に、事実に向き合った文章の方が、かえって味があり、評価されるということに繋がると言うことです。
1.3 言語の「適正な」使用から
1.1から1.2にかけて、マクロ的・ミクロ的な視点から作文技術の重要性をまとめてきました。では、最初の質問である、言語と作文技術の関係について、どういった事が分かったでしょうか。まず、言語を用いた作文の際には、書き手の集中力は読み手の理解の「快適さ」をいかに高めるかといったことに帰結する(すべき)といったことが、どうやら共通している事項のように思えます。また、修飾語・非修飾語の関係性からは、日本語(のみとはもちろん断言できません)が持つ、修飾に関する統語システムの複雑さを認めることができました。
それでは、英語教育、とりわけ、英文和訳や和文英訳の指導に当たる際に、これらの事項は十分考慮されているのでしょうか。訳文という作業の中に、複雑な構文構造を持つ日本語表現と、それとは全く系統を異にする英語表現との間の溝を埋めるための指導は、やはり是が非でもなされるべきではないかと思います。それらを考慮していない指導は、日本語での作文能力のますますの停滞と、西洋的尺度を伴った日本語表現の蹂躙に他なりません。
2 「技術」の先を見据えて
2.1 読ませる≠美辞麗句を並べる
論文は、素人でも分かるように、玄人でも楽しんで読める内容でなくてはなりません。特に何の予備知識も無い読者を対象に文章を書くのであれば、大変な骨の折れる作業となります。そんな時、
1.2.1で述べたように、ついつい美辞麗句や使いまわされた表現へと傾倒しがちになってしまいます。しかし、文字表現は、映像や音声と異なり、伝えられる情報は限定的な反面、そのインパクト次第ではテレビやラジオなどの情報複合的な伝達媒体に劣らない活用の仕方も十分に考えられます。文字情報は必要最低限かつ、最も効率が良く、読者の目を惹くものであるべきと言えます。
2.2 裏付け・材料はしっかりと
ここで筆者が述べたいのは、具体的≠現実的であるということです。残念ながら、本書で述べられている例は、執筆された時代背景などから、私にとってはやや分かりにくいものとなっています。ここでの「現実的」とは、深い裏付けや取材を伴わない「表層的な解決」にベクトルを向けた表現であり、「具体的」とは、知識やそれが指し示す「具体」に伴う事実の確認(時に数十~数百倍に及ぶ)を経た「実証的な解決」と定義することができるのではないでしょうか。実際に文面に起こすのは10パーセントでも、残りの90パーセントをしっかりと裏付けておくことこそ、事実の揺らぎのない作文を書く大事な要素ではないでしょうか。
2.3 氾濫する「良い」「悪い」文章
1.1 作文技術と言語の関係
作文には、言語という概念が常に付きまとっています。著者は「言語とはすなわちその社会の倫理である。」(本文p.20、8行目)と述べています。社会の倫理、つまり、それに含有されている「文化」を背景にした構造の元に成り立っている分野であると言い換えることが出来るでしょう。この事実が、日本語を用いた作文技術にどういった影響を及ぼしているのでしょうか。統語的な観点や修辞法のまとめから、それらを検証してゆきます。
1.1.1 修飾する・されるコトバの四原則
著者は、修飾・非修飾に焦点を置いた言語使用には、四つの原則が適用されると述べています。
(1) 節を先にし、句を後にまわす
(2) 長い修飾語は前に、短い修飾語は後に
(3) (2)に加え、大状況(重大なもの)から小状況(重大でないもの)へ
(4) (修飾語句の並列的使用の際に)親和度の強弱による配置の転換
いずれも小難しいことを述べているように思えます。しかし、実際文章にして紙に書いてみると、悪例として本文中で紹介されている文章は、どこか感覚的に「おかしい」と思えるものがほとんどです。
以下の例は原則(4)を、オリジナルの例文に適用したものです。
A. 美しい後頭部が光るガラスに反射した。
B. 光るガラスに美しい後頭部が反射した。
これらは、X./美しい後頭部が/、Y./光るガラスに/、Z./反射した/の三つに分けることができます。XとYの修飾語句は、Zに対して並列的に用いられているため、どちらが先に来ても良いはずですが、明らかにBの例文の方が、すんなりと頭に入ってきます。Aの例文中の「後頭部」と「光る」の親和性が高いため、XとYの順番を入れ替え、読者のミスリードを誘発する可能性を下げたBの方が、よりリーダビリティが高いのです。
私たちは、このように言語化された文章表現のルールにはたいへん不慣れです。フィーリングで、適当に、なんとなく合っているような、そのような文体で書くことは出来ても、普段から意識的にモニタリング出来ていない上記の原則などを提示された場合、戸惑ってしまうばかりでしょう。その能力をトレーニングし、産出した文章へのチェック能力を強化することが、複雑な修辞語句を操るためのひとつのコツではないでしょうか。
1.1.2 句読点の使用術
句読点は、並列や同格の語の間で使用する事が推奨されます。しかし、当然ながら、本文中にあるように「カール・マルクス・アダム・スミス・チャールズ・R ・ダーウィン」と記述してしまっては、記述のルールが破綻してしまい、読者としても書き手としても、本当に伝えたいことが伝わらないことは明白です。分かりやすい句読点の打ち方のためには、「、」と「・」を上手く使い分ける必要があると言えるでしょう。特に「、」を使用する際は、構文上の重要な観点から打たれた「、」の機能を破壊してしまうような乱用をなるべく避けなければなりません。
1.1.3 漢字とカナとひらがな
これも、読者が日本語を読む際の「快適さ」を考慮しなくてはならない問題です。三種類の文字を同時に表示し使用出来ると言うことは、多様な文章表現への可能性と同時に、上手い組み合わせを考えなければ、内容理解の際に、読み手にとって大変読みにくく、かつ、不快な文章となる危険性を孕んでいると言えます。漢字とカナとひらがなの混用を考える際に、真っ先に私の頭に浮かんできたことは、コンピュータの文字入力ソフトウェアの存在です。ここ数十年で、文字変換ソフトは性能面で大きな進歩を遂げましたが、それを使う側の人間の能力はどうでしょうか。いたずらにエンターキーを押す前に、立ち止まって自分の文章を見直してみることを勧めます。
1.2 読者に分かる文章を
1.1.1から1.1.3までの項目から、どんな表現や修辞法であれ、その根底には読者の視点というものが存在しているということが分かりました。しかし、「読みやすい文章」とは、そういった修辞的技術の習得と発展へと全てが帰結されうるものではありません。より視点を広げ、書き手のセンスが問われるようなパターンもいくつか挙げられています。
1.2.1 既成の表現から離れる
まとめてしまうならば、「かっこをつけた」文章はあまり良い印象は持たれない、ということに尽きるということです。手アカと本文中では表現していますが、そういった言葉の中には、かえって文章を陳腐なものに成り下がらせてしまう要素が含まれている、と筆者は指摘しています。既成(Ready-made)の使い古された表現は、ついつい私たちも多用してしまいがちではないでしょうか。ウィットに富んでいることよりも、実直で、その表現に適切だと思えるような表現を心がけたいと思います。
1.2.2 繰り返しに留意する
この章を読み、自分の文章を見直していると「~ました。」「~と言えます。」この二つの語尾で文章が終わっていることが多いという事実に気付きました。普段からしっかりと見直しているように思えて、一文飛んで見てみるとまた繰り返しの表現を使っていることはザラにあります。このような似たような表現が続けば、文章とそれに伴う意味がぶつ切りにされ、理解するのに多大な労力が必要となってきます。また、逆接はなるべく使用しない、複数回使用する場合は表現を変える、こんな基礎的な事も、案外忘れられがちではないでしょうか。
1.2.3 落語家に学ぶ
本当に面白い表現は、「文章が笑っていない」ことである、と筆者は指摘します。落語家は、面白い場面を本当に正直に、真面目に演じます。そこでは、「笑い」の内容で投影されるべきなのは「笑い」だけであり、そこに付随する言葉は余計なものとして扱われるべきであるという信念が存在します。これは、文章表現においても同じであるということです。オノマトペや、事実に基づかない誇大妄想的な表現より、馬鹿正直に、事実に向き合った文章の方が、かえって味があり、評価されるということに繋がると言うことです。
1.3 言語の「適正な」使用から
1.1から1.2にかけて、マクロ的・ミクロ的な視点から作文技術の重要性をまとめてきました。では、最初の質問である、言語と作文技術の関係について、どういった事が分かったでしょうか。まず、言語を用いた作文の際には、書き手の集中力は読み手の理解の「快適さ」をいかに高めるかといったことに帰結する(すべき)といったことが、どうやら共通している事項のように思えます。また、修飾語・非修飾語の関係性からは、日本語(のみとはもちろん断言できません)が持つ、修飾に関する統語システムの複雑さを認めることができました。
それでは、英語教育、とりわけ、英文和訳や和文英訳の指導に当たる際に、これらの事項は十分考慮されているのでしょうか。訳文という作業の中に、複雑な構文構造を持つ日本語表現と、それとは全く系統を異にする英語表現との間の溝を埋めるための指導は、やはり是が非でもなされるべきではないかと思います。それらを考慮していない指導は、日本語での作文能力のますますの停滞と、西洋的尺度を伴った日本語表現の蹂躙に他なりません。
2 「技術」の先を見据えて
2.1 読ませる≠美辞麗句を並べる
論文は、素人でも分かるように、玄人でも楽しんで読める内容でなくてはなりません。特に何の予備知識も無い読者を対象に文章を書くのであれば、大変な骨の折れる作業となります。そんな時、
1.2.1で述べたように、ついつい美辞麗句や使いまわされた表現へと傾倒しがちになってしまいます。しかし、文字表現は、映像や音声と異なり、伝えられる情報は限定的な反面、そのインパクト次第ではテレビやラジオなどの情報複合的な伝達媒体に劣らない活用の仕方も十分に考えられます。文字情報は必要最低限かつ、最も効率が良く、読者の目を惹くものであるべきと言えます。
2.2 裏付け・材料はしっかりと
ここで筆者が述べたいのは、具体的≠現実的であるということです。残念ながら、本書で述べられている例は、執筆された時代背景などから、私にとってはやや分かりにくいものとなっています。ここでの「現実的」とは、深い裏付けや取材を伴わない「表層的な解決」にベクトルを向けた表現であり、「具体的」とは、知識やそれが指し示す「具体」に伴う事実の確認(時に数十~数百倍に及ぶ)を経た「実証的な解決」と定義することができるのではないでしょうか。実際に文面に起こすのは10パーセントでも、残りの90パーセントをしっかりと裏付けておくことこそ、事実の揺らぎのない作文を書く大事な要素ではないでしょうか。
2.3 氾濫する「良い」「悪い」文章
インターネット上や雑誌には、様々な形式の日本語の文章が掲載されています。玉石混交のそれらの中から、この本の内容に沿って「良い」「悪い」選り分けていった場合、果たしてどれほどの文章が「良い」文章として選別されるのでしょうか。そして、普段私たちが接している文章、産出している文章は、健全な構成を伴っているかどうか、一体誰がチェック出来るのでしょうか。文章は意思を持ちません。書いた本人と読み手の、時空を超えたコミュニケーションが存在するのみです。情報の選び手である私たちは、しっかりとした文章を選び取り、内容を評価する能力を身につけるべきではないでしょうか。
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少しだけ思ったこと。
冒頭で、「執筆された時代背景から、現代にはそぐわない表現を一部変更した」と述べました。
当時(80年代)は、学生紛争の名残が残り(一部ではまだ活発に活動していたようですが)、まだ日本が
「ポスト戦後」「戦後○○年」という時代の括りの中に居た時代でした。
どうにも、この時代には大変惹かれるものがあるように思えてなりません。
もちろん、当時の社会機運や情勢を知っている世代からすれば、現代の日本社会も捨てたものではない(現に、ここ数ヶ月の、東北大震災に対しての日本人の働きは国内外から高く評価されています)、と言うかもしれません。しかし、過去の社会の延長線上にあるはずの現代社会は、当時の社会から何を学び取ったのでしょう。
急な、あるいは緩やかな変化はどのように訪れたのか?
現代の社会の原型となった、戦後から高度経済成長期、不況の時代とは何だったのか?
1990年生まれの私が、憧憬の態度を持ち、当時の社会背景に触れることに興味を持つのは何故か?
4月14日に、広島商工会議所で開催された広大夕学講座にて、姜尚中東京大学教授のサテライト講義を受講しました。
そこで考えたこと、思ったことは、上記の疑問の解決の糸口になるような気がしました。ぜひ時間を見つけてまとめたいと思います。
現代の社会の原型となった、戦後から高度経済成長期、不況の時代とは何だったのか?
1990年生まれの私が、憧憬の態度を持ち、当時の社会背景に触れることに興味を持つのは何故か?
4月14日に、広島商工会議所で開催された広大夕学講座にて、姜尚中東京大学教授のサテライト講義を受講しました。
そこで考えたこと、思ったことは、上記の疑問の解決の糸口になるような気がしました。ぜひ時間を見つけてまとめたいと思います。