2013年4月23日火曜日

【授業メモ】学術論文の書き方とその指導法


学術論文の書き方とその指導法 -大学教員を目指して-
2013.04.17(Wed)

(修士課程も二年目に入りました。圧倒的な勉強不足であることを日々感じています。)


1. 本講義で

 アカデミックライティング(以下、AWと略)の手法をしっかりと身につけることは、学術論文を完成させる上で必要不可欠な条件であると考えられています。その証拠に、大学の講義(本講義も含む)や学術論文などで、AWは大きな学問・研究分野の一つとして取り扱われています。その理由としては、AWの醍醐味が、「社会のための活動」であるのと同時に、「自分の興味関心や知的好奇心を満たすための活動」であるからではないか、と考えられます。自分の私的な好奇心の対象と、公の求める利益が合致した際には、その学術論文は大きなインパクトをもって社会に受け入れられるものとなるでしょう。当然のことながら、その習熟には適切な指導や助言、練習の必要があることは自明であります。Swales and Feak (2012)は、AWの手法を身につけることの必要性について”Understanding your writing strategies is important in becoming of a confident writer.” (p.3) と言及していますが、これは同時に、本講義を通じて身に付けるべき技術や心構えを端的に表したものと言って差し支えないと思います。彼らは、その”writing strategies”をさらに6つの下位カテゴリに分けています。各講義の時間において取り扱われるであろう内容と合致しているかを照らし合わせつつ、それらのカテゴリの概略を簡単にまとめてゆきます。

2. 6つのカテゴリから見る本講義の特性
2.1 読み手(Audience)
学術的内容の読み手として、手元にある論文が主張する動機や筋書き、データなどが”受け入れ可”なものであるかどうか判断することは、他者の視点を取り入れる良質な訓練となるでしょう。本講義においては、主に後半の実践的・査読的なグループワーク活動(丸山先生担当)を通じて、専攻や国籍が異なる人物が書いた学術的文章に触れる機会が多く提供されると予想されます。学術的なことばのシャワーを大量に浴びつつ、多彩なバックグラウンドを持つ人々が、それぞれの読み手の視点から良し悪しを議論する、この授業ならではの貴重な機会であると言えます。


2.2 目的(Purpose)
       2.1とは逆に、読み手に何を伝えたいのか、という目的を明確にするために、書き手の視点からも読み手の求めるものを予測しなくてはなりません。その際に、書き手側の立場や知識量を読み手側と比較し、予想を立て、各々のレベルに合わせたわかりやすい表現の使用や、語彙の選出を心がける必要があります。もし、読み手側の知識が書き手側のそれを上回っていれば、より新しく有益な情報にフォーカスした、過不足ない専門的な情報の提示が求められますし、逆に一般の読者をも想定するのであれば、基本的な説明を配置するなどの配慮が求められることとなります。本講義では主に後者を想定した指導が行われるようですが、普段から同じ専攻内の人々とのみ原稿を見せ合い、議論しがちな私達にとって、自信に満ちた「研究の目的」が専攻外の人間にどう映るのか、その現実を知ることが出来るのではないでしょうか。

2.3 構成(Organization)
学問分野によっても異なりますが、その分野に合致した、読者にとって読みやすい構成を考える訓練が必要です。とりわけ、今回は知識が十分でない読者をも想定する必要があります。つまり、普段から用いている文章の構成ストラテジーが、果たしてその専門外の人々にとって読みやすいかどうか、再検討する必要があるということです。Swales and Feak(2012)でも述べられている、代表的な構成ストラテジーの例としては、”Problems-Solutions”、”Situation-Problem-Solution-Evaluation”、”Comparison-Contrast”、”Cause-Effect”、”Classification”などが挙げられます。一概にこれこそが優れた構成であるとは言えませんが、そのヒントを与えてくれる講義として「混沌から線へ」(柳瀬先生担当)などがそれに当たるものと考えれられます。

2.4 文体(Style)
AWを行う上で、論を進める際の文体表現が適切であればあるほど、書き手の意図や動機などが読者にとって分かりやすくなります。読み手がどのような人物で、書き手である自分としてはどのような意図や動機や結果を伝えたいのか、という2つの変数によって大きく左右される項目であると言えます。具体的には、文体そのものの丁寧さの度合いや、語彙の選択基準などが大きなウェイトを占めます。個人的には、実際の日本語における文体指導を十分に受けた経験がないため、本講義における「日本語の文法」(柳沢先生担当)の時間などに、テクニックや留意点などについての知識を得たいと思います。

2.5 流れ(Flow)
1つのパラグラフや文章の中で、考えが明瞭に繋がっていると感じさせる文章は、AWに欠かせない要素であると言えます。それらを身に付けるためには、文脈や主張の繋がりに適った接続詞や句読点の使用、旧情報から新情報への読者の負担が少ない提示の仕方など、普段から意識せずに文章を組み立てているだけでは得られない「テキスト内の流れ」に関する知識を得ることであると言えます。このことで、伝えたい内容そのものやその背景、次の議論へのリンクを読者にわかりやすい形で示すことが可能になります、本講義においては、「わかりやすい文章・文章のための工夫」(柳瀬先生担当)などにおいて、そのエッセンスを学ぶことが可能になるのではないでしょうか。

2.6 提示(Presentation)
完成した学術論文の内容がいかに優れていても、注意していれば防げる初歩的なミスを見逃すことは非常に残念なことでしょう。ざっと例に挙げるだけでも、「パラグラフの文頭と文末にContent-bridgeが架けられているか?」、「(英文の場合)フォーマットはMLAか、APAか、Chicago Styleか?」、「主語-述語は対応しているか?」、「時制は統一されているか?」、「能動態と受動態の使い分けが出来ているか?」、「誤った意味で語句を用いていないか?」など、キリがありません。これらは本講義における特定の授業で取り扱われるテーマとは一線を画したものであり、毎回の課題提出や文献購読の中で、各人が意識的に注意を払い、自他含めた文章から学び取ろうとする姿勢が重要であると言えます。本講義の様に、ほぼ毎回の授業で何らかの学術的文章に触れるとなれば、練習の機会もそれだけ多いということになります。これも魅力的な側面ではないでしょうか。

3. まとめ
このように、この授業全体を通じて、また各回の講義内容を通じて、学術論文をよりベターなものに近づける上で必要な知識を得る機会は、十分に保証されているように思えます。後は、この授業にどのような態度で臨むか、どのように実際の課題に取り組んでいくかは、個人のやる気次第でしょう。私個人としては、この貴重な機会を逃したくありませんし、難しい課題においてもベストを尽くそうと考えています。また、研究者志望ではありませんが、AWの知識を今後の社会人生活でも役立ててゆこうと考えている所存です。


参考文献

Swales, M, J,. and Feak, B, C,. (2012). Academic Writing for Graduate Students: Essential Tasks and Skills 3rd edition. The University of Michigan Press

2011年5月17日火曜日

書評: 金谷 憲(2009) 『教科書だけで大学入試は突破できる』 大修館書店

私が所属する2011年度柳瀬ゼミでは、卒業論文作成のための活動として、文献や論文を読み解き、それらのまとめ(提出課題)を行っています。
この投稿は、ゼミのでの提出課題の原稿・構成を元に、一部加筆・修正したものです。

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今回の書評は、金谷憲 編著「教科書だけで大学入試は突破できる」(大修館書店)を読み、まとめたものである。この本では、過去の入試問題やそのデータを下に、英語教科書が取り扱っている内容は、センター試験や大学入試問題に、どこまで対応できるのか、ということについて考察を行っている。


1.大学入試を捉えなおす必要性

1.1 入試を気分で捉えるな
 「入試対策」という言葉を聞くと、文法や単語、長文読解やリスニングなどの指導を思い浮かべるだろう。もちろん、それらは大学入試に臨む生徒にとって重要な指導内容であることには間違いない。しかし、深く考えること無しにやみくもに指導していては、変わりつつある英語教育の流れに逆行するような受験対策に終始してしまいかねないのではないだろうか。「入試の対策は難しい」などといった気分的なものに原動力を求めた入試対策ではなく、明確なデータに基づいた実践的な大学入試対策を探って行く必要がある。

1.2 大学入試「英語」不要論
また、筆者の金谷氏は、冒頭に大学入試の英語科廃止論について触れている。ここでは、仮に入試全般において英語科の試験が廃止されたとして、実際の現場ではどういったことを指導したいか、ということをアンケート調査している。面白いことに、ほとんどの教師は明確なビジョンを持てないでいることが分かった。これも、日々の実践の中で教師が、得体の知れない「大学入試」に対する、ゴールの見えない指導に苦しんでいることを暗に示し、気分(恐怖心)に左右されている証拠なのではないだろうか。


2.文法からの観点

2.1 思い込みと現実のギャップ
 まず、著者らは、主に教科書で扱われている文法項目に焦点を当て、大学入試ではどういった文法事項が問われやすいのか調査している。調査結果は、比較的簡単な文法事項(下掲)が頻出し、多くの教師(それも進学校のベテラン教師であればあるほど)が思っている、「大学入試で頻出する文法事項」と大きく違っていたのだ。



・大学入試で頻出する文法事項(頻出上位5位まで)
頻度構文
it is … (for/of) to ~  <it: 形式主語、[目的語]>
if + S + V (過去/過去完了), S’ would …
it is … that [how/if/etc..] … <it: 形式主語、[目的語]>
so … that ~
it is … that [who/which] … <強調>


・アンケート結果(有名私立進学校 英語科教師対象)
「良く問われる構文」と回答頻出ランキングでの順位
no more … than ~37位
all the 比較級 for ~41位
might as well … as ~62位


「あまり問われない構文」と回答頻出ランキングでの順位
so … that ~4位
it is … (for/of) to ~2位
in order to ~9位


2.2 暗記から活用へ
 また、著者らは、センター試験や大学入試の問題で問われている文法事項を調査し、データ化している。その際、筆者らは文法知識そのものが問われる問題をTargeted question、文法知識を知らないと解答できないような問題をUntargeted questionと定義した。そのデータの内、センター試験、国立大学(東京大、京都大、一橋大、東工大、東北大の5校)、早稲田大、慶応大の入試問題のTargeted questionは減少傾向にある一方、Untargeted questionは増加傾向にあるという結果になった。しかし、1.2でも示したように、そのUntargeted questionに分類された問題の大部分は、基本的な構文を中心としたものである。入試の難易度が下がってきていないことを加味すると、今回対象となった大学入試問題は、一昔前までは直積的な文法知識が役立つことが多かったが、最近の傾向として、長文問題や自由英作問題の増加に伴い、それらをいかに活用するかといった点に焦点が置かれてきているようであると言える。授業の中での英文法の教え方を変えていく必要性が、はっきりと示されているのではないだろうか。


3.語彙からの観点

3.1 実は高い「カバー率」
 次に、著者らは中学校の検定教科書7冊と、高校の英語科(Genius 英,,Reading,Writing,Oral Communication )で使われている教科書で扱われている語彙が、入試問題で使用されている英単語をどれほど網羅しているのかについて調査した。その結果、中・高等学校合わせて7019語(異なり語の総数を使用)の単語は、大学入試問題で使用された単語に対して、95.6%のカバー率を示した。もちろん、全ての大学・学部の入試問題を使用したわけではないものの、これは非常に高い数値と言える。


3.2 単語力より推測力
 3.1で、中高等学校で扱う語彙は、入試において高いカバー率を示したことを示した。しかし、私見では、教科書だけでほとんどの単語をカバー出来るのだから、副教材や英単語集に頼ることは不必要であるとは思わない。例えば、意味が分からない英単語に出くわした時、我々はまず周囲の知っている単語や文脈から、その意味を推測しようとする。そこで重要になってくるのは、その単語が持つイメージや、知っている単語から想起される類義語などである。周囲の知っている単語が多ければ多いほど、読解の手助けになり、そこから想起されるイメージや類義語も、多くの単語を知っていればいるほど、豊かなものになる。しかし、教科書で英単語を集中的に取り扱うことは、時間的な制約もありなかなか難しい。そこを埋め合わせるために、課外学習や自宅学習などで副教材を利用することは、効果的な学習のひとつではないだろうか。そこで注意すべきなのは、単語を覚えることは、単なる暗記競争なのではなく、読解や作文の際に大変役立つことを意識させることであると言える。また、日々の単語テストのあり方なども、再考する必要があるように思える。


4.文量からの観点

4.1 速読が求められる実態
 最後に、著者らが取り組んだのは、大学入試英語の文量比較である。センターと各大学の入試問題の英文量をwpm(word per minuteの略で、一分間にいくつの単語を読む必要があるか)という単位に換算して調査した。国立大学は東京大の277wpm(2007年入試問題)を筆頭に、一部例外はあるものの、高校生の平均値である75wpmを超え、速読の技術が求められていることが分かった。私立大学も早稲田大、慶応大を筆頭に、ほぼ平均値以上の速読が必要であることが分かった。また、最も受験者が多いセンター試験でも、2002年から2007年度の間で120~150wpmの中に留まっており、やはり「早く読む」という訓練は大学入試に不可欠であるということが分かる。

4.2 平均から実用レベルへの壁
 しかし、先述したように、高校生の平均wpmは75wpmという水準に留まっている。教科書のみを活用して、平均wpmの数値を伸ばすための十分な対策が取られているのだろうか。高校の英語の教科書で扱う総文量の18,794語を、授業の半分を用いて読解に充てたとすると、一回の授業あたり、英語では3.05wpm、英語では3.08wpmというスピードでしか授業を進めていない計算になると、筆者は指摘する。中学校の英語教科書ともなると、0.67wpmになり、一分間に一語以下という結果が出ている。もちろん、授業内容とそれに充てられる時間は、単純に割り切れるものではないが、教科書内での英文量対時間のバランスは、現行の入試問題の傾向に則っているとは、言い難い。

4.3 授業の工夫と基礎的な英語力
 では、教科書のみで対策を講ずるのは難しいことであるのだろうか。筆者は、多く出回っている速読用の副教材を参考にして、教科書を「課」単位で使用することを提案している。ある課をレッスンごとにぶつ切りで教えるのではなく、まとめた長文問題として提示し、問題のバリエーションを変えることによって速読や長文対策にしてしまうのである。教科書は、大抵の生徒にとって比較的とっつきやすいテーマが選ばれており、また、2.1や3.1で述べたように、教科書で扱われている語彙や文法は、他の副教材に頼らざるとも、大学入試対策に有効でもある事から、このような上手い活用をすることで、十分に速読の訓練に使える教材に化けるのである。
 もちろん、読むスピードのみに焦点を置いてしまうと、内容理解を伴わない速読の技術のみが強化されてしまう危険性も著者は指摘している。速読は、基礎的な単語や文法理解の能力の上に、初めて成り立つ能力であるということも、心得ておく必要がある。


5.教科書だけで入試は突破できるか?


5.1 現状から
 結論から言えば、「突破できる」であろう。教科書は、私が思っていた以上に、その理解を深めることと、内容の活用を行うことさえすれば、大変役に立つものであることを実感できた。しかし、現状に伴わない教科書の文量や、大学入試への理解が不十分なままに入試英語の対策を行っている、といった事実が、提示されたデータから垣間見えたようにも思える。私個人の意見としては、3.2でも触れたように、教科書の内容を中心にしつつも、副教材を使用することによって指導が効果的に行える分野に関しては、副教材の活用も視野に入れても良いのではないかとも考える。



5.2 実体験から
実体験として、私は高校1年の後半から、教科書中心から、ほぼ副教材(単語集・速読用教材・Reading/Writing用教材)中心の授業を受けていた。もし、それらを教科書使用のみに一元化して、その上、他のどんな副教材よりも大学入試対策に役立つ授業を行えるとしたら、素晴らしいことではないかと思う。無駄な副教材などを全ての生徒に買い与える必要もなくなることから、財政面でもメリットがあると言えよう。しかし、未だに多くの先生が(少なくとも私の高校ではそうであったように思える)大学入試に関して間違った情報を持ち、必ずしも理にかなっていない指導を行っている以上、それらを改善するには多大な労力が必要である。また、教科書のみで教えるためには、教材を使いやすいように工夫する力や、それらを用いた新しい教え方を創造する力なども試されることだろう。
何はともあれ、大学入試を「得体の知れない大きな目標」から、「教科書のみで突破できる目標」へとイメージチェンジするためには、まずは入試そのものの正体を知ることが大事だ。時間の限られている先生方にこそ、この本を是非読んでいただきたいと思う。

書評: 寺島隆吉(2009) 『英語教育が亡びるとき 「英語で授業」のイデオロギー」』明石出版 、金谷憲(2008) 「英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます」 研究社


私が所属する2011年度柳瀬ゼミでは、卒業論文作成のための活動として、文献や論文を読み解き、それらのまとめ(提出課題)を行っています。
この投稿は、ゼミのでの提出課題の原稿・構成を元に、一部加筆・修正したものです。

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 今回は、寺島隆吉著「英語教育が亡びるとき 『英語で授業』のイデオロギー」及び、金谷憲著「英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます」を読み、感じたこと、思ったことをまとめています。

1.英語教育の現状と課題

1.1 英語教師になるキッカケ
 英語教師になる理由は人それぞれだと思いますが、多くの英語科教員志望の学生は「英語という言葉が好きだから」、「生徒に英語を教えるのが好きだから」などと答えるでしょう。しかし、寺島氏は、その著書「英語教育が亡びるとき 『英語で授業』のイデオロギー」の中で「~英語教師の多くは英米文化にあこがれて自分の職業を選んでいます。(中略)こうして(中略)「欧米人崇拝」と「アジア人蔑視」が同時進行することになります。」と、述べています。やや大袈裟に聞こえるかもしれませんが、教員志望の学生は、「いや、私はそのような色眼鏡で英語を教えるつもりはない。」と言い切れるでしょうか。それとも、自らが知らない間に、その一端を担ってしまっているのでしょうか。本文中の例を交えながら、検証してゆきたいと思います。

1.2 教師・学校・国家の自己家畜化
 寺島氏は「英語教育の3つの危険」として、以下の事項を挙げています。

(1)教師の自己家畜化
(2)学校の自己家畜化
(3)国家の自己家畜化

 (1)は、1.1で前述したように、英語教師が英米(人)文化やアジア(人)文化に対して、色眼鏡を通した教授を行っているということです。具体的には、アメリカ流の文化は至上のものという立場に立ったものの見方を押し付けたり、無条件にアジアや、その他の文化圏のものの見方・考え方に対して、否定的な意見を押し付けたりすることが考えられます。
 (2)は、本来は教科や科目といった形で、学校経営の下に置かれるべき英語が力を持ってしまい、学校そのものの構造を変えてしまうといった現象です。例えば、本来は初等(小学校)-中等教育(中・高等学校)といった形で、互いに連携すべき学校間の関係の崩壊や、「英語が使えること=経済力」といった安易な考え方(後述)に基づく、大学での巨費を投入しての全学TOEICテストの導入、などといった例が挙げられます。
 (3)に関しては、アメリカ式の文化を至上のものととする考えの下で成立した、国家的な教育政策・社会改革などのことです。寺島氏は、終身雇用制から成果主義、和装からネクタイ・スーツ、木造からコンクリートへの転換などは、全て国家の自己家畜化以外の何者でもないと述べています。

1.2.1 「使う機会が少ない言語<身近に話せる言語」?
 1.2の(1)に関して、寺島氏は英語教育が目指すべき態度は、英語至上主義的な教授ではなく、英語以外にも様々な言語があるということを教えなくてはならないと述べています。この態度は、英語教育に携わる者なら、必ず身につけておくべきものであると強く思います。しかし、その宣言に続く文では「だとすれば、(中略)学習しても使う機会の少ない英語を学ぶより、身近に話し相手がいる中国語や韓国朝鮮語を学んだほうが遥かに益があるとも考えられます。」と述べています。私は、この点については同意しかねます。使う機会の少ない言語は、身近に話す相手がいる言語に劣るものでしょうか。もちろん、将来のアジア共同体構想を踏まえた上で、「人との交流で学びやすく・使う機会の多い言語」が、中国・韓国朝鮮・ポルトガル・ロシア・アラビア語であるとしたら、そう不思議なことではありません。しかし、経済に大きく左右されるはずの言語政策が、どうして未だにそれらの言語の初・中等教育における必修化を採択していないのでしょうか。英語が持つ、純粋な言語としての影響力は、もはや目をつぶって見過ごすことができるようなものではありません。

1.2.2 英語は言語帝国主義の先兵か
 先述した1.2.1に関して、もちろんその他の言語も同様に扱うことが出来れば、それが理想であるといえます。しかし、現実には英語科だけでも週3時間という制約があり、総合学習や課外学習を含めても、現実に2ヶ国語以上を、均等に教えるといったことはかなり厳しい状況にあるように思えます。もちろん、少人数クラスに分割した上で、留学生などが英語以外の言語を教えることも可能ではあります。では、英語を教えることに関してはどうでしょう。生きた英米文化に触れる機会はほとんど無いものの、JETプログラムなどで多数派遣されるALT相手に英語を「使う」機会くらいは、せめて捻出することは出来るのではないでしょうか。それでも身近にある国の言語の方が触れる機会や使用する機会が多い、という態度を保ち、英語を言語帝国主義の先兵として卑屈なマイナスイメージを持ち続けるのは、賢明とは言い難いように思えてなりません。

1.3 メディア・コントロールと英語教育
 では、そんな状況で、どうして我々は英語を教えなければならないのでしょう。寺島氏は、小泉政権の構造改革や規制緩和、靖国問題、ユーゴスラビアの民族虐殺などの例を用いた、メディア・コントロールの恐怖を指摘しています。言語学者(これには英語教師も含まれる)は言語に対して鋭敏な感覚を持ち、メディア・コントロールに惑わされない防波堤の役割を果たしていかねばなりません。国民の全てがそのようなリテラシーを身につけることが最も理想的な形ですが、実際にはそうはいきません。英語教師は、言語を扱う仕事です。言語に敏感になり、常に正確な情報を集めようとする態度は、無意識的な特定の文化一辺倒の発言を遠ざける事に繋がり、自ずと生徒や学生に向かって情報を発信する際の前提条件となりうるのではないでしょうか。

1.3.1 文化的暴力は存在するか
 また、寺島氏は「日本に長く住んでいる英米人は日本語を学ばない」とも述べています。また、欧米圏から来たと見かけから想像できる外国人を見ると、英語で話しかけようとする日本人、また、それが当然と思っている英米人の問題点も指摘しています。それは、英米人が自らのことを「選ばれしもの」と考えているからだ、と説明しています。中国人やベトナム人は、そういった場合おそらく日本語で話しかけられることがほとんどでしょう。残念ながら、この文化的暴力なるものは、間違いなく日本の社会に存在しています。しかしながら、それがどのようにして言語帝国主義の加担へと繋がるのか、もう少し考察が必要に思えます。 

1.3.2 英語「教育」にとって政治とは何か
 英語教師のみならず、全ての国家公務員は政治的な活動に参加することは法律で禁じられています。しかし、「知っていること」が多ければ多いほど、そして、それらがより真実に近ければ近いほど、生徒や学生に提示できる良い素材(教材)の幅は広がります。英語教育では、学習者が言語を構造的に学び、使いこなせるようになることが目標とされるべきですが、そこでは、恣意的な政治感情や扇動は排除されるべきです。使い古された表現ですが、政治と(英語)教育は切っても切り離せない関係にあると言えます。

2.学習指導要領と現場
 新学習指導要領が提示されて、現場ではどんな反応が起きたのでしょうか。実際の内容と照らし合わせながら、その混乱の原因と、浮き彫りになってきた問題点を指摘しました。

2.1 新学習指導要領を巡る3つの間違い
 寺島氏は、立教大学教授・松本茂氏らの「英語で授業できるの?」という対談に関して、3つの点から反論を行っています。松本氏は、野球の打撃練習と紅白戦を例に、和訳一辺倒の授業ではなく書く・読む・聞く・話すの4領域を統合した授業を行うことを提言しています。

2.1.1 高校の授業は「和訳一辺倒」である
 寺島氏は、まず「和訳一辺倒」が行われていることが誤解であると反論しています。これは、実際の全国の教室現場に行って見るか、あるいは政府が大規模な調査を行わなければ見えてきにくいデータであるといえますが、大学入試は着実に変わってきているという寺島氏の指摘が事実なら、誤解は事実であるといえます。現場の混乱は、英語だけでの授業を行うことといったことに加えて、何故一足飛びにその結論へと達したのか、といったこともあるのではないでしょうか。

2.1.2 打撃練習と紅白戦
 打撃練習を経て紅白戦へとつなげるのは、野球指導の鉄則ともいえます。松本氏は、英語でのコミュニケーションが図られていない授業は、野球選手が上手い選手のビデオ鑑賞のみで実践に備えるようなもので、打撃練習や紅白戦を重視していないことと同じだと指摘しました。ここで寺島氏が持ち上げたのは、打撃練習と紅白戦が同じレベルで語られているといったことでした。つまり、順番はさることながら、その強度(負荷)が重要であるということです。最初から150km/hの投球スピードのピッチングマシーンで打撃練習をするより、80km/hから打撃フォームを作っていったほうが良いのは、明白な事実です。150km/hで行うことのメリットは、現場の先生方も見出せていないのではないでしょうか。

2.1.2 四領域の統合
 また、2.1.2で指摘したことの実現のために、「紅白戦の中ですべての野球に関する技能を強化するような」授業内容が、4技能が統合された授業の形であると松本氏は述べています。すなわち、ピッチング、送球、守備、打撃、ベンチでの応援など、すべての技能を実践の中で行えということなのです。野球に例えるとなんだか現実離れして聞こえますが、英語教育の話題の中ではなぜかまともに聞こえてしまうのが不思議です。

2.2 外国語習得に必要な総時間数
 カナダ・オンタリオ州のイマージョン・プログラムの研究によると、簡単な会話・文章が読める初級レベルの外国語能力を身につけるためには、最低1200時間の授業が必要だと述べています。また、新聞や興味のある本が読め、テレビやラジオの内容が理解でき、会話にまずまずの対応が出来るのに最低2100時間が必要だとも述べています。それぞれ、中学校卒業時と高校卒業時の目標に当てはめてみると、前者の総時間数が270時間、後者が740~920時間という結果になっています。つまり、最高でも中・高等学校合わせて1200時間弱の授業時間しか確保されていないのです。もちろん、多少強引な計算ではありますが、高等学校で求められる水準とは、かなりの乖離が見られている状況であることは疑いようがありません。

2.2.1 グラス&スミスの調査より
 また、興味深い調査として、グラス&スミスの調査があります。私がこれを知って驚いたのが、日本の「少人数学級」と呼ばれる規模の学級は、欧米諸国では多人数学級と呼べる位、実は人数が多すぎるものであったということです。この調査では、クラスに人数が少なければ少ないほど教育効果が上がることが判明し、また、その効果が顕著となる人数は、一学級あたり20人以下であると試算されました。少人数学級は推進こそされているものの、実際には減らせても30人前半位、また、常時分割したクラスで授業を行うには、教師の人数不足や労力が甚大なものになってくると予測されます。

2.2.2 教師を取り巻く環境
 また、フィンランドと比べて、日本の先生は自主的な教科研修に行く時間がほとんどありません。抜本的な待遇改善への道はまだまだ遠いですが、せめて長期休暇や有給休暇を使って、より積極的に外部の機関や他の先生と交流をもつ機会を設けるべきではないでしょうか。色々な考えに触れる機会さえ奪ってしまうことは、教育の質の低下に直結する事態であるといえます。

2.3 「6年間習っているのに・・・」の真実
 金谷氏が「英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます」の中で、大変面白い計算をされています。氏は、電車内で発見した語学学校の中吊り広告にある「日本では1100時間という膨大な時間を(英語学習に)使っているのに、効果があがらない・・・」という文句から、一年間での英語授業の時間数、生徒の活動時間に対する英語授業の割合を算出しました。それによると、生徒たちは1年間で約139時間の英語の授業を受けていて、それが1年間の内の起きている時間に占める割合は、わずか2.4パーセントでしかなかったのです。ひとつの外国語を学ぶのに、2.4パーセントの時間しか割かないようであるなら、英語でのディベートやプレゼンテーションが満足に出来るレベルまで英語の力を引き上げる挑戦は、果たして上手くいくのでしょうか。

3.各国を取り巻く状況との比較
 最後に、「COURRiER」(講談社)の日本版から、日本とアジアの諸外国の英語教育に対する取り組みの違いを指摘します。

3.1 韓国・中国との比較
 日本とよく比較される国に、中国と韓国が挙げられます。TOEIC・TOEFLの話題になると、いかに日本が両国に水をあけられているかについてしばしば言及されますが、実際にはどのような事実が隠されているのでしょうか。

3.1.1 「英語塾」が大盛況の韓国
 韓国は自らを「英語共和国」と名乗るほど、英語教育に力を入れている国です。韓国における英語教育は巨大産業のひとつになっており、市場規模は1兆1千億円にもなります。また、「英語塾」なる英会話学校が各地に存在し、大手英語塾にもなると、午前6時から真夜中の0時まで、生徒を授業と自習に費やさせるところもあります。その大きな代償を払ってまで英語を学ぶ理由として、韓国の公営企業と大企業(従業員1000人以上)の実に40パーセントに、TOEICスコアによる足切り制度が存在しているため、ということがあります。就職活動に必死な大学生は、国内留学してでもそれらの学校に入学しようと必死なのです。幾つかの企業では、日本の大学の2次試験のように、英語の面接を課しているところもあるようです。しかし、詰め込み型の教育には、影の部分も存在しています。たとえば、ある塾では、他人の文章を丸暗記させて、部分的に単語を変え、ライティング問題に対応させようとしていたりするケースもあります。昨年では、KAISTに特待生で入った優秀な学生が、「英語で行われる数学の授業についてゆけない。」という遺書を残し、自殺するという痛ましい事件も起こりました。このような必死の努力の上で初めて、韓国の英語教育は高い水準に保たれているのではないでしょうか。

3.1.2 エリートのための英語を目指す中国
 中国の英語教育も、韓国と似ており、大学生を中心とした多くの若者が英語を学習しています。しかし、中国国内において、エリート層こそがもっとも英語学習に貪欲な人種であると言えます。英語が人生を決める、といっても過言ではなく、事実、中国の普通の大学生でさえ「全国大学英語考試4級」という試験に合格しなければ、大学を卒業することすら許されません。また、エリート層は米国の名門大学へ留学するため、予備校や大手英語学校へと寸暇を惜しんで通います。GREを受験する中国の学生は、そのほとんどのスコアがトップ5パーセントに入ります。小学校入学時から英語を学び始めた彼らにとって、英語とは成功するためのツールであり、世界と戦っていくための、国を引っ張っていくための武器でもあります。社会階層が上に行けば行くほど、その意識はより強いものになっていくのです。

3.2 単純な比較は可能か?
 中国・韓国の例のみ取り上げてみましたが、やはり日本と直接比較するのには十分な環境であるとは言い難いのが現状ではないでしょうか。もちろん、日本にも熱心な英語塾はありますし、大学の一部の学部では規定のTOEICスコアを取得しなければ卒業できません。しかし、日本には韓国や中国のような、英語教育に対して血の滲むような努力をしているといった風潮は、ほとんど存在していません。その事実を、自国語で学問が出来る素晴らしい環境が整備されているのだ、と捉えることも可能ですし、反対に日本がこれから国際的進出を拡大してゆく際の妨げになるに違いない、という考え方も出来ます。どちらが良いにせよ悪いにせよ、宣伝文句に釣られることなく、こういった諸外国の英語教育事情の事実を伝えることや、1100時間の数字にだまされないことなどは、私たちが今すぐ出来る、課題解決への一つの糸口になるのではないでしょうか。
 
【参考文献】
中井 弘一 (2010) 『高等学校における「英語の授業は英語で行う」についての一考察』  大阪女学院大学紀要7号
高橋 寿夫 (2004) 『「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想」に関する一考察』 関西大学外国語教育研究 8


今回の書評は、使用する言葉や説明の順序が錯綜してしまい、一部読みづらい内容となっています。ゼミでも、周囲からの厳しく、またありがたい指摘を多く受けました。
しかし、自分への戒めも込め、原文のママ、掲載することにしました。
「読みやすい文章」、永遠の課題ですが、今後も精進してゆきたく思います。

書評: メアリアン・ウルフ(小松淳子訳) 『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』 合同出版

私が所属する2011年度柳瀬ゼミでは、卒業論文作成のための活動として、文献や論文を読み解き、それらのまとめ(提出課題)を行っています。
この投稿は、ゼミのでの提出課題の原稿・構成を元に、一部加筆・修正したものです。

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今回は、メアリアン・ウルフ著 (小松淳子訳) 「プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?」を読み、考え、感じたことをまとめています。たいへん濃い内容を取り扱っており、全項目を上手くまとめるに至らなかったため、この本の核心部分であるPartⅢ「脳が読み方を学習できない場合」を中心に、取り扱っています。

1.ディスレクシアとは
 ディスレクシアとは、「読字障害」と訳され、文字の判読や認識の際に、通常の学習者と比べ困難を伴い、習得が非常に多くの労力を伴う症状のことを指し示します。失読症、難読症などとも呼ばれ、学習障害の一種として認識されています。その直接的な要因となりうるメカニズムはいくつか提唱されていますが、まだはっきりとした原因は分かっていません。この本では、それらのメカニズムに触れつつ、私達に課せられた課題を読み解いていくことを目指しています。

1.1 ディスレクシアがある人々
 まず、ディスレクシアがあり、そのハンデにも関わらず「思いがけない」才能により社会的に成功した人々は、健常者のそういった人々と同じく、幸福な人生を送っています。しかし、実際にそれらの障害があると知らずにもがき、他人に理解されず、後ろ向きな人生を送ってきた、不幸なディスレクシアがある人々は、たとえ自らの障害と向き合い、それまでの人生と一線を画す人生を手に入れたとしても、そこには常に少年少女時代の暗い記憶がつきまとうのです。初期の発見と適切な処置がいかに重要であるか、また、この症状の原因を解き明かす研究の必然性が、はっきりと分かります。

1.2 厄介な大仕事
 いざ研究に取り掛かってみると、3つの厄介な事実が立ちはだかります。まず、文字を読む脳に求められる条件の複雑さ。次に、ディスレクシアの研究は多くの分野にまたがっているということ。そして、時には研究者ですら当惑するほど、ディスレクシアがある人々は非凡な長所と圧倒的な弱点を兼ね備えているということです。例えば、生成文法の存在を唱えたチョムスキーの言語学的立場からのアプローチはもちろん、社会階級からこの問題を取り上げるようなアプローチも存在しています。

1.3 ピラミッド構造から読み取るディスレクシア
 複雑な問題であると踏まえ原因を探っていく前に、頭の隅に置いておいて欲しいことが一つあります。英国の神経生理学者アンドリュー・エリスは、人間の進化の過程から推察するに、脳は決して言語を読むための機構を備えているわけではないと述べています。人間の場合、視覚や聴覚などの感覚器は、親から子へと受け継がれる遺伝子によって、自動的にに生得するのに対し、識字能力に関しては成長のプロセスの中で各々が独自に習得するという、別の機構を保ち続けています。言い換えるなら、ピラミッド状に形成された脳内にあるシナプスやニューロン、それらが支える脳内の回路、それらの回路同士の接続を調べる必要があり、それは必然的に識字のプロセスの解明はもとより、ディスレクシアの構造の解明にも繋がってゆくのです。

1.4 4つのタイプ
 1.3で述べた識字プロセスを示すピラミッドには、4つのレベルがあり、下から順番に「遺伝子基盤」「ニューロン・回路」「神経系の構造物」「知覚・運動・概念・言語プロセス」の要素で成立しています。それらの上には、実勢の行動レベルが存在します。これらは、これから述べる4つの原因とも深く結びついています。

1.4.1 構造物・遺伝子に関わる欠陥
 この説では、ディスレクシアは古くからある脳内の構造物のひとつに原因があるとする説です。先にも述べたように、読書や識字のみに特化した期間は脳内には存在しません。本来は別の用途で用いられていたはずの脳内構造物が連鎖と同期を繰り返し、独特の識字のための構造物から成るシステムを作り上げているのです。この章で登場するムッシュXという人物は、左視覚野と脳梁後部の連結を脳卒中で失いました。神経科医ゲシュヴィントはこれを「離断症候群」と名付け、書記言語に必要とされる2つの部分が断絶されたことに起因するものであると定義しました。しかし、心理学者のリーバーマンとシャンクワイラーの、重度聴覚障害児を対象とした実験では、言語学的に高度な音素分析スキルと認識スキルに原因があるとし、その後に行われた心理学者ヴェルティノの別の実験では、それらを同時に検証できる実験を行い、障害の原因は言語スキルにあるということを証明しました。このように実験を挙げて見るだけでもお分かりかと思いますが、実はこれらの原因を突き詰めていくと、文字を読み、判別する脳の主要構成要素(知覚・聴覚・視覚・・・etc)の全てをカバーしているのです。

1.4.2 自動性を獲得する上での問題
 この説では、ディスレクシアがある人々は、ある刺激に対して、処理をする際の速度(それも、かなり初期段階の構造物同士をつなぎ合わせる作業)が通常より遅く、迅速な処理をすることが出来ないとしています。それらの原因が脳の回路のどの部分に存在しているのかを突き止めるというよりは、どの部分に存在していても命名障害や読字障害に繋がりうる可能性を示唆しています。

1.4.3 回路間の接続障害
 この説では、読字回路内の接続も、回路内の構造物に匹敵するほど重要であるとするものです。イタリアの神経科学者達は、「島(イシュラ)」と呼ばれる広い接続領域が上手く機能していないことに言及しました。また、エール大学の研究チームは、本来なら脳内の「37野」という場所に形成される最も強力な回路の結びつきが、全く異なる場所に形成されるばかりか、音韻情報の処理中には、本来繋がっていなくてはならない左半球の言語野との繋がりがまったく見られないことを発見しました。つまり、ディスレクシアの子供たちは、全く異なる識字回路を発達させて接続し、使用していたのです。

1.4.4 異なる回路の再編成
 この説では、本来なら創造性やパターン推測、文脈認識スキルなどに用いられる右半球が、音声言語や文字言語の処理に特化した左半球の機能を補助するとしています。結論から述べるならば、ディスレクシアの人々は、言語処理を右半球に異常なまでに頼っており、機能代償という形でそれらを用いているということが分かりました。本来は左半球で処理されるべきものが右半球で処理されているわけですから、普通の人と比べてもより多くの時間を要します。そのため、ディスレクシアの人々は、識字・読解に「追いつけなくなる」という、一般からは想像しにくい現象に見舞われることとなります。

2. 遺伝子とディスレクシア

2.1 著名人とディスレクシア
 かの有名なトーマス・エジソン、ダ・ヴィンチ、アルベルト・アインシュタインもディスレクシアだったと言われています。正式な学校教育を受けていなかったり、手記が全てかがみ文字であったり、アイデアが鮮明なイメージとして浮かび上がってくるようなこれらの人々に、何か共通する事項はあるのでしょうか。彼らは左半球の機能をあえて右半球で処理していることによって、イレギュラーな構造部が存在を許していると言えます。それらの「わがまま」な細胞・回路群(本文中では「異所性」と表されています)によって、何らかの変化が、右脳のほかの領域に優位性をもたらす変化を起こしていると見る見方があります。これらをミクロ的に検証してゆくと、やがて遺伝子の壁にぶち当たります。

2.2 遺伝子にみるディスレクシアの家系
 1.4.1で、言語の認知処理は古くからの脳内構造物が関与していると述べました。つまり、一つの遺伝子による表現型からディスレクシアは発現するのではなく、複数の遺伝子領域が複雑に絡み合い、その結果として多くの表現型を示すということです。例えば、ドイツ語などの正字法がしっかりとした言語使用者でのディスレクシアの種類を見て見ると、流暢さに関連した障害がその多くを占めます。しかしながら、英語や中国語などの話者に焦点を当てると、その割合は低く保たれたままです。このように、ディスレクシアが発現するか否かについては、個々の言語間まで深く遡った遺伝子要因にまで目を向ける必要があるのです。


3. 機械と未来の可能性
未来の科学技術の発展により、出来ることと切り捨てられることが出てくるのは必然の問題といえます。筆者は、読書がもたらす恩恵に焦点を当てつつ、新しいテクノロジーがもたらす変革と時代の流れに警鐘を鳴らしています。

3.1 「より多く、より早く」は善きことか
 著者のウルフは、「より多く、より早いほうが絶対によいという前提には、大いに疑問を抱くべきだ。」と述べています。現代の人々はがコンピュータの画面上に表示される情報獲得の手段に慣れてしまったとき、我々人類がこれまで培ってきた「書記言語に洞察と喜びと苦悩と知恵を見出す能力」はどうなってしまうのでしょうか。もののコンマ数秒で知りたい情報へたどり着くことが可能な検索エンジンの台頭は、メディア・リテラシーの立場からの警告というより、それ以前の古典的なリテラシーの消失をも危惧せざるをえません。書を読むこと、コンピュータを使うこと、社会の流れがもたらした似て非なるこの2つの行為を、取捨選択してゆくのか、共存させてゆくのか、我々の手にゆだねられているという事なのです。

3.2 オンライン・リテラシーの進展から
 また、ウルフはこのようにも警告します。「子供たちの教育に関わるものは、親も教師も学者も政策決定者も皆、子供が誕生したときから大人になるまで、読字プロセスのあらゆる構成要素の準備ないし指導が理にかなった形で、きめ細かく、明示的に行われるよう最善を尽くすべきである。」美しい詞や文学に触れることで味わうことの出来る感動や、冒険記を読んでいるときの登場人物と自分を重ね合わせて胸躍る瞬間などは、検索すれば画面上に瞬時で表示される、一見すると「魅惑的」な情報に見劣りしかねません(私はそうではない、と思うならば、現代でコンピュータ抜きの生活を想像してみると良いでしょう)。そうであるならば、やはり筆者の言うとおり、発達段階のあらゆる箇所において、適切な推論や推敲を用い、自力でものを考える能力を培う必要があるといえます。教育現場、ましてや言語を主体として扱わねばならない英語教育の現場では、自力で考え、ことばを理解して使用する能力を「本当に」見据えた政策や実践がなされているのでしょうか。

3.4 超越して思考する時間
 この本のタイトルにも含まれているイカは、泳げない弱い個体=ディスレクシアの人々のたとえで使用されている。イカはすばやく泳げなければすぐに捕食されてしまうが、人類の歴史では(少なくとも不遇な扱いを受けている人々は今でも存在するものの)しぶとく、時にはその才能を開花させながらディスレクシアという病を構成に伝え続けてきました。彼らの存在意義とは、一体何なのでしょうか。何はともあれ、科学的な解明がされつつある以上、私たちは彼らの素晴らしい潜在能力を守ることを手助けしていかねばなりません。科学の進歩は、脳の適応能力さえかえるポジティブな力を持っている反面、読書という知的レパートリーを増やす素晴らしい行為を貶めるネガティブな力も併せ持っています。著者は、二者択一ではなく、共存する道こそが正しいのだと述べています。超越して思考する時間とは、脳内のニューロンの伝達速度の僅かな差のことを示し、同時にそれは人類の読書の発達の歴史とも読み取ることが出来ます。ディスレクシアがある人々の研究は、読書をするということの本質を探り、来るべき次の時代に向けての準備をすることにもなるのです。