私が所属する2011年度柳瀬ゼミでは、卒業論文作成のための活動として、文献や論文を読み解き、それらのまとめ(提出課題)を行っています。
この投稿は、ゼミのでの提出課題の原稿・構成を元に、一部加筆・修正したものです。
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今回は、寺島隆吉著「英語教育が亡びるとき 『英語で授業』のイデオロギー」及び、金谷憲著「英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます」を読み、感じたこと、思ったことをまとめています。
1.英語教育の現状と課題
1.1 英語教師になるキッカケ
英語教師になる理由は人それぞれだと思いますが、多くの英語科教員志望の学生は「英語という言葉が好きだから」、「生徒に英語を教えるのが好きだから」などと答えるでしょう。しかし、寺島氏は、その著書「英語教育が亡びるとき 『英語で授業』のイデオロギー」の中で「~英語教師の多くは英米文化にあこがれて自分の職業を選んでいます。(中略)こうして(中略)「欧米人崇拝」と「アジア人蔑視」が同時進行することになります。」と、述べています。やや大袈裟に聞こえるかもしれませんが、教員志望の学生は、「いや、私はそのような色眼鏡で英語を教えるつもりはない。」と言い切れるでしょうか。それとも、自らが知らない間に、その一端を担ってしまっているのでしょうか。本文中の例を交えながら、検証してゆきたいと思います。
1.2 教師・学校・国家の自己家畜化
寺島氏は「英語教育の3つの危険」として、以下の事項を挙げています。
(1)教師の自己家畜化
(2)学校の自己家畜化
(3)国家の自己家畜化
(1)は、1.1で前述したように、英語教師が英米(人)文化やアジア(人)文化に対して、色眼鏡を通した教授を行っているということです。具体的には、アメリカ流の文化は至上のものという立場に立ったものの見方を押し付けたり、無条件にアジアや、その他の文化圏のものの見方・考え方に対して、否定的な意見を押し付けたりすることが考えられます。
(2)は、本来は教科や科目といった形で、学校経営の下に置かれるべき英語が力を持ってしまい、学校そのものの構造を変えてしまうといった現象です。例えば、本来は初等(小学校)-中等教育(中・高等学校)といった形で、互いに連携すべき学校間の関係の崩壊や、「英語が使えること=経済力」といった安易な考え方(後述)に基づく、大学での巨費を投入しての全学TOEICテストの導入、などといった例が挙げられます。
(3)に関しては、アメリカ式の文化を至上のものととする考えの下で成立した、国家的な教育政策・社会改革などのことです。寺島氏は、終身雇用制から成果主義、和装からネクタイ・スーツ、木造からコンクリートへの転換などは、全て国家の自己家畜化以外の何者でもないと述べています。
1.2.1 「使う機会が少ない言語<身近に話せる言語」?
1.2の(1)に関して、寺島氏は英語教育が目指すべき態度は、英語至上主義的な教授ではなく、英語以外にも様々な言語があるということを教えなくてはならないと述べています。この態度は、英語教育に携わる者なら、必ず身につけておくべきものであると強く思います。しかし、その宣言に続く文では「だとすれば、(中略)学習しても使う機会の少ない英語を学ぶより、身近に話し相手がいる中国語や韓国朝鮮語を学んだほうが遥かに益があるとも考えられます。」と述べています。私は、この点については同意しかねます。使う機会の少ない言語は、身近に話す相手がいる言語に劣るものでしょうか。もちろん、将来のアジア共同体構想を踏まえた上で、「人との交流で学びやすく・使う機会の多い言語」が、中国・韓国朝鮮・ポルトガル・ロシア・アラビア語であるとしたら、そう不思議なことではありません。しかし、経済に大きく左右されるはずの言語政策が、どうして未だにそれらの言語の初・中等教育における必修化を採択していないのでしょうか。英語が持つ、純粋な言語としての影響力は、もはや目をつぶって見過ごすことができるようなものではありません。
1.2.2 英語は言語帝国主義の先兵か
先述した1.2.1に関して、もちろんその他の言語も同様に扱うことが出来れば、それが理想であるといえます。しかし、現実には英語科だけでも週3時間という制約があり、総合学習や課外学習を含めても、現実に2ヶ国語以上を、均等に教えるといったことはかなり厳しい状況にあるように思えます。もちろん、少人数クラスに分割した上で、留学生などが英語以外の言語を教えることも可能ではあります。では、英語を教えることに関してはどうでしょう。生きた英米文化に触れる機会はほとんど無いものの、JETプログラムなどで多数派遣されるALT相手に英語を「使う」機会くらいは、せめて捻出することは出来るのではないでしょうか。それでも身近にある国の言語の方が触れる機会や使用する機会が多い、という態度を保ち、英語を言語帝国主義の先兵として卑屈なマイナスイメージを持ち続けるのは、賢明とは言い難いように思えてなりません。
1.3 メディア・コントロールと英語教育
では、そんな状況で、どうして我々は英語を教えなければならないのでしょう。寺島氏は、小泉政権の構造改革や規制緩和、靖国問題、ユーゴスラビアの民族虐殺などの例を用いた、メディア・コントロールの恐怖を指摘しています。言語学者(これには英語教師も含まれる)は言語に対して鋭敏な感覚を持ち、メディア・コントロールに惑わされない防波堤の役割を果たしていかねばなりません。国民の全てがそのようなリテラシーを身につけることが最も理想的な形ですが、実際にはそうはいきません。英語教師は、言語を扱う仕事です。言語に敏感になり、常に正確な情報を集めようとする態度は、無意識的な特定の文化一辺倒の発言を遠ざける事に繋がり、自ずと生徒や学生に向かって情報を発信する際の前提条件となりうるのではないでしょうか。
1.3.1 文化的暴力は存在するか
また、寺島氏は「日本に長く住んでいる英米人は日本語を学ばない」とも述べています。また、欧米圏から来たと見かけから想像できる外国人を見ると、英語で話しかけようとする日本人、また、それが当然と思っている英米人の問題点も指摘しています。それは、英米人が自らのことを「選ばれしもの」と考えているからだ、と説明しています。中国人やベトナム人は、そういった場合おそらく日本語で話しかけられることがほとんどでしょう。残念ながら、この文化的暴力なるものは、間違いなく日本の社会に存在しています。しかしながら、それがどのようにして言語帝国主義の加担へと繋がるのか、もう少し考察が必要に思えます。
1.3.2 英語「教育」にとって政治とは何か
英語教師のみならず、全ての国家公務員は政治的な活動に参加することは法律で禁じられています。しかし、「知っていること」が多ければ多いほど、そして、それらがより真実に近ければ近いほど、生徒や学生に提示できる良い素材(教材)の幅は広がります。英語教育では、学習者が言語を構造的に学び、使いこなせるようになることが目標とされるべきですが、そこでは、恣意的な政治感情や扇動は排除されるべきです。使い古された表現ですが、政治と(英語)教育は切っても切り離せない関係にあると言えます。
2.学習指導要領と現場
新学習指導要領が提示されて、現場ではどんな反応が起きたのでしょうか。実際の内容と照らし合わせながら、その混乱の原因と、浮き彫りになってきた問題点を指摘しました。
2.1 新学習指導要領を巡る3つの間違い
寺島氏は、立教大学教授・松本茂氏らの「英語で授業できるの?」という対談に関して、3つの点から反論を行っています。松本氏は、野球の打撃練習と紅白戦を例に、和訳一辺倒の授業ではなく書く・読む・聞く・話すの4領域を統合した授業を行うことを提言しています。
2.1.1 高校の授業は「和訳一辺倒」である
寺島氏は、まず「和訳一辺倒」が行われていることが誤解であると反論しています。これは、実際の全国の教室現場に行って見るか、あるいは政府が大規模な調査を行わなければ見えてきにくいデータであるといえますが、大学入試は着実に変わってきているという寺島氏の指摘が事実なら、誤解は事実であるといえます。現場の混乱は、英語だけでの授業を行うことといったことに加えて、何故一足飛びにその結論へと達したのか、といったこともあるのではないでしょうか。
2.1.2 打撃練習と紅白戦
打撃練習を経て紅白戦へとつなげるのは、野球指導の鉄則ともいえます。松本氏は、英語でのコミュニケーションが図られていない授業は、野球選手が上手い選手のビデオ鑑賞のみで実践に備えるようなもので、打撃練習や紅白戦を重視していないことと同じだと指摘しました。ここで寺島氏が持ち上げたのは、打撃練習と紅白戦が同じレベルで語られているといったことでした。つまり、順番はさることながら、その強度(負荷)が重要であるということです。最初から150km/hの投球スピードのピッチングマシーンで打撃練習をするより、80km/hから打撃フォームを作っていったほうが良いのは、明白な事実です。150km/hで行うことのメリットは、現場の先生方も見出せていないのではないでしょうか。
2.1.2 四領域の統合
また、2.1.2で指摘したことの実現のために、「紅白戦の中ですべての野球に関する技能を強化するような」授業内容が、4技能が統合された授業の形であると松本氏は述べています。すなわち、ピッチング、送球、守備、打撃、ベンチでの応援など、すべての技能を実践の中で行えということなのです。野球に例えるとなんだか現実離れして聞こえますが、英語教育の話題の中ではなぜかまともに聞こえてしまうのが不思議です。
2.2 外国語習得に必要な総時間数
カナダ・オンタリオ州のイマージョン・プログラムの研究によると、簡単な会話・文章が読める初級レベルの外国語能力を身につけるためには、最低1200時間の授業が必要だと述べています。また、新聞や興味のある本が読め、テレビやラジオの内容が理解でき、会話にまずまずの対応が出来るのに最低2100時間が必要だとも述べています。それぞれ、中学校卒業時と高校卒業時の目標に当てはめてみると、前者の総時間数が270時間、後者が740~920時間という結果になっています。つまり、最高でも中・高等学校合わせて1200時間弱の授業時間しか確保されていないのです。もちろん、多少強引な計算ではありますが、高等学校で求められる水準とは、かなりの乖離が見られている状況であることは疑いようがありません。
2.2.1 グラス&スミスの調査より
また、興味深い調査として、グラス&スミスの調査があります。私がこれを知って驚いたのが、日本の「少人数学級」と呼ばれる規模の学級は、欧米諸国では多人数学級と呼べる位、実は人数が多すぎるものであったということです。この調査では、クラスに人数が少なければ少ないほど教育効果が上がることが判明し、また、その効果が顕著となる人数は、一学級あたり20人以下であると試算されました。少人数学級は推進こそされているものの、実際には減らせても30人前半位、また、常時分割したクラスで授業を行うには、教師の人数不足や労力が甚大なものになってくると予測されます。
2.2.2 教師を取り巻く環境
また、フィンランドと比べて、日本の先生は自主的な教科研修に行く時間がほとんどありません。抜本的な待遇改善への道はまだまだ遠いですが、せめて長期休暇や有給休暇を使って、より積極的に外部の機関や他の先生と交流をもつ機会を設けるべきではないでしょうか。色々な考えに触れる機会さえ奪ってしまうことは、教育の質の低下に直結する事態であるといえます。
2.3 「6年間習っているのに・・・」の真実
金谷氏が「英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます」の中で、大変面白い計算をされています。氏は、電車内で発見した語学学校の中吊り広告にある「日本では1100時間という膨大な時間を(英語学習に)使っているのに、効果があがらない・・・」という文句から、一年間での英語授業の時間数、生徒の活動時間に対する英語授業の割合を算出しました。それによると、生徒たちは1年間で約139時間の英語の授業を受けていて、それが1年間の内の起きている時間に占める割合は、わずか2.4パーセントでしかなかったのです。ひとつの外国語を学ぶのに、2.4パーセントの時間しか割かないようであるなら、英語でのディベートやプレゼンテーションが満足に出来るレベルまで英語の力を引き上げる挑戦は、果たして上手くいくのでしょうか。
3.各国を取り巻く状況との比較
最後に、「COURRiER」(講談社)の日本版から、日本とアジアの諸外国の英語教育に対する取り組みの違いを指摘します。
3.1 韓国・中国との比較
日本とよく比較される国に、中国と韓国が挙げられます。TOEIC・TOEFLの話題になると、いかに日本が両国に水をあけられているかについてしばしば言及されますが、実際にはどのような事実が隠されているのでしょうか。
3.1.1 「英語塾」が大盛況の韓国
韓国は自らを「英語共和国」と名乗るほど、英語教育に力を入れている国です。韓国における英語教育は巨大産業のひとつになっており、市場規模は1兆1千億円にもなります。また、「英語塾」なる英会話学校が各地に存在し、大手英語塾にもなると、午前6時から真夜中の0時まで、生徒を授業と自習に費やさせるところもあります。その大きな代償を払ってまで英語を学ぶ理由として、韓国の公営企業と大企業(従業員1000人以上)の実に40パーセントに、TOEICスコアによる足切り制度が存在しているため、ということがあります。就職活動に必死な大学生は、国内留学してでもそれらの学校に入学しようと必死なのです。幾つかの企業では、日本の大学の2次試験のように、英語の面接を課しているところもあるようです。しかし、詰め込み型の教育には、影の部分も存在しています。たとえば、ある塾では、他人の文章を丸暗記させて、部分的に単語を変え、ライティング問題に対応させようとしていたりするケースもあります。昨年では、KAISTに特待生で入った優秀な学生が、「英語で行われる数学の授業についてゆけない。」という遺書を残し、自殺するという痛ましい事件も起こりました。このような必死の努力の上で初めて、韓国の英語教育は高い水準に保たれているのではないでしょうか。
3.1.2 エリートのための英語を目指す中国
中国の英語教育も、韓国と似ており、大学生を中心とした多くの若者が英語を学習しています。しかし、中国国内において、エリート層こそがもっとも英語学習に貪欲な人種であると言えます。英語が人生を決める、といっても過言ではなく、事実、中国の普通の大学生でさえ「全国大学英語考試4級」という試験に合格しなければ、大学を卒業することすら許されません。また、エリート層は米国の名門大学へ留学するため、予備校や大手英語学校へと寸暇を惜しんで通います。GREを受験する中国の学生は、そのほとんどのスコアがトップ5パーセントに入ります。小学校入学時から英語を学び始めた彼らにとって、英語とは成功するためのツールであり、世界と戦っていくための、国を引っ張っていくための武器でもあります。社会階層が上に行けば行くほど、その意識はより強いものになっていくのです。
3.2 単純な比較は可能か?
中国・韓国の例のみ取り上げてみましたが、やはり日本と直接比較するのには十分な環境であるとは言い難いのが現状ではないでしょうか。もちろん、日本にも熱心な英語塾はありますし、大学の一部の学部では規定のTOEICスコアを取得しなければ卒業できません。しかし、日本には韓国や中国のような、英語教育に対して血の滲むような努力をしているといった風潮は、ほとんど存在していません。その事実を、自国語で学問が出来る素晴らしい環境が整備されているのだ、と捉えることも可能ですし、反対に日本がこれから国際的進出を拡大してゆく際の妨げになるに違いない、という考え方も出来ます。どちらが良いにせよ悪いにせよ、宣伝文句に釣られることなく、こういった諸外国の英語教育事情の事実を伝えることや、1100時間の数字にだまされないことなどは、私たちが今すぐ出来る、課題解決への一つの糸口になるのではないでしょうか。
【参考文献】
中井 弘一 (2010) 『高等学校における「英語の授業は英語で行う」についての一考察』 大阪女学院大学紀要7号
高橋 寿夫 (2004) 『「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想」に関する一考察』 関西大学外国語教育研究 8
今回の書評は、使用する言葉や説明の順序が錯綜してしまい、一部読みづらい内容となっています。ゼミでも、周囲からの厳しく、またありがたい指摘を多く受けました。
しかし、自分への戒めも込め、原文のママ、掲載することにしました。
「読みやすい文章」、永遠の課題ですが、今後も精進してゆきたく思います。
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