2011年5月17日火曜日

書評: メアリアン・ウルフ(小松淳子訳) 『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』 合同出版

私が所属する2011年度柳瀬ゼミでは、卒業論文作成のための活動として、文献や論文を読み解き、それらのまとめ(提出課題)を行っています。
この投稿は、ゼミのでの提出課題の原稿・構成を元に、一部加筆・修正したものです。

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今回は、メアリアン・ウルフ著 (小松淳子訳) 「プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?」を読み、考え、感じたことをまとめています。たいへん濃い内容を取り扱っており、全項目を上手くまとめるに至らなかったため、この本の核心部分であるPartⅢ「脳が読み方を学習できない場合」を中心に、取り扱っています。

1.ディスレクシアとは
 ディスレクシアとは、「読字障害」と訳され、文字の判読や認識の際に、通常の学習者と比べ困難を伴い、習得が非常に多くの労力を伴う症状のことを指し示します。失読症、難読症などとも呼ばれ、学習障害の一種として認識されています。その直接的な要因となりうるメカニズムはいくつか提唱されていますが、まだはっきりとした原因は分かっていません。この本では、それらのメカニズムに触れつつ、私達に課せられた課題を読み解いていくことを目指しています。

1.1 ディスレクシアがある人々
 まず、ディスレクシアがあり、そのハンデにも関わらず「思いがけない」才能により社会的に成功した人々は、健常者のそういった人々と同じく、幸福な人生を送っています。しかし、実際にそれらの障害があると知らずにもがき、他人に理解されず、後ろ向きな人生を送ってきた、不幸なディスレクシアがある人々は、たとえ自らの障害と向き合い、それまでの人生と一線を画す人生を手に入れたとしても、そこには常に少年少女時代の暗い記憶がつきまとうのです。初期の発見と適切な処置がいかに重要であるか、また、この症状の原因を解き明かす研究の必然性が、はっきりと分かります。

1.2 厄介な大仕事
 いざ研究に取り掛かってみると、3つの厄介な事実が立ちはだかります。まず、文字を読む脳に求められる条件の複雑さ。次に、ディスレクシアの研究は多くの分野にまたがっているということ。そして、時には研究者ですら当惑するほど、ディスレクシアがある人々は非凡な長所と圧倒的な弱点を兼ね備えているということです。例えば、生成文法の存在を唱えたチョムスキーの言語学的立場からのアプローチはもちろん、社会階級からこの問題を取り上げるようなアプローチも存在しています。

1.3 ピラミッド構造から読み取るディスレクシア
 複雑な問題であると踏まえ原因を探っていく前に、頭の隅に置いておいて欲しいことが一つあります。英国の神経生理学者アンドリュー・エリスは、人間の進化の過程から推察するに、脳は決して言語を読むための機構を備えているわけではないと述べています。人間の場合、視覚や聴覚などの感覚器は、親から子へと受け継がれる遺伝子によって、自動的にに生得するのに対し、識字能力に関しては成長のプロセスの中で各々が独自に習得するという、別の機構を保ち続けています。言い換えるなら、ピラミッド状に形成された脳内にあるシナプスやニューロン、それらが支える脳内の回路、それらの回路同士の接続を調べる必要があり、それは必然的に識字のプロセスの解明はもとより、ディスレクシアの構造の解明にも繋がってゆくのです。

1.4 4つのタイプ
 1.3で述べた識字プロセスを示すピラミッドには、4つのレベルがあり、下から順番に「遺伝子基盤」「ニューロン・回路」「神経系の構造物」「知覚・運動・概念・言語プロセス」の要素で成立しています。それらの上には、実勢の行動レベルが存在します。これらは、これから述べる4つの原因とも深く結びついています。

1.4.1 構造物・遺伝子に関わる欠陥
 この説では、ディスレクシアは古くからある脳内の構造物のひとつに原因があるとする説です。先にも述べたように、読書や識字のみに特化した期間は脳内には存在しません。本来は別の用途で用いられていたはずの脳内構造物が連鎖と同期を繰り返し、独特の識字のための構造物から成るシステムを作り上げているのです。この章で登場するムッシュXという人物は、左視覚野と脳梁後部の連結を脳卒中で失いました。神経科医ゲシュヴィントはこれを「離断症候群」と名付け、書記言語に必要とされる2つの部分が断絶されたことに起因するものであると定義しました。しかし、心理学者のリーバーマンとシャンクワイラーの、重度聴覚障害児を対象とした実験では、言語学的に高度な音素分析スキルと認識スキルに原因があるとし、その後に行われた心理学者ヴェルティノの別の実験では、それらを同時に検証できる実験を行い、障害の原因は言語スキルにあるということを証明しました。このように実験を挙げて見るだけでもお分かりかと思いますが、実はこれらの原因を突き詰めていくと、文字を読み、判別する脳の主要構成要素(知覚・聴覚・視覚・・・etc)の全てをカバーしているのです。

1.4.2 自動性を獲得する上での問題
 この説では、ディスレクシアがある人々は、ある刺激に対して、処理をする際の速度(それも、かなり初期段階の構造物同士をつなぎ合わせる作業)が通常より遅く、迅速な処理をすることが出来ないとしています。それらの原因が脳の回路のどの部分に存在しているのかを突き止めるというよりは、どの部分に存在していても命名障害や読字障害に繋がりうる可能性を示唆しています。

1.4.3 回路間の接続障害
 この説では、読字回路内の接続も、回路内の構造物に匹敵するほど重要であるとするものです。イタリアの神経科学者達は、「島(イシュラ)」と呼ばれる広い接続領域が上手く機能していないことに言及しました。また、エール大学の研究チームは、本来なら脳内の「37野」という場所に形成される最も強力な回路の結びつきが、全く異なる場所に形成されるばかりか、音韻情報の処理中には、本来繋がっていなくてはならない左半球の言語野との繋がりがまったく見られないことを発見しました。つまり、ディスレクシアの子供たちは、全く異なる識字回路を発達させて接続し、使用していたのです。

1.4.4 異なる回路の再編成
 この説では、本来なら創造性やパターン推測、文脈認識スキルなどに用いられる右半球が、音声言語や文字言語の処理に特化した左半球の機能を補助するとしています。結論から述べるならば、ディスレクシアの人々は、言語処理を右半球に異常なまでに頼っており、機能代償という形でそれらを用いているということが分かりました。本来は左半球で処理されるべきものが右半球で処理されているわけですから、普通の人と比べてもより多くの時間を要します。そのため、ディスレクシアの人々は、識字・読解に「追いつけなくなる」という、一般からは想像しにくい現象に見舞われることとなります。

2. 遺伝子とディスレクシア

2.1 著名人とディスレクシア
 かの有名なトーマス・エジソン、ダ・ヴィンチ、アルベルト・アインシュタインもディスレクシアだったと言われています。正式な学校教育を受けていなかったり、手記が全てかがみ文字であったり、アイデアが鮮明なイメージとして浮かび上がってくるようなこれらの人々に、何か共通する事項はあるのでしょうか。彼らは左半球の機能をあえて右半球で処理していることによって、イレギュラーな構造部が存在を許していると言えます。それらの「わがまま」な細胞・回路群(本文中では「異所性」と表されています)によって、何らかの変化が、右脳のほかの領域に優位性をもたらす変化を起こしていると見る見方があります。これらをミクロ的に検証してゆくと、やがて遺伝子の壁にぶち当たります。

2.2 遺伝子にみるディスレクシアの家系
 1.4.1で、言語の認知処理は古くからの脳内構造物が関与していると述べました。つまり、一つの遺伝子による表現型からディスレクシアは発現するのではなく、複数の遺伝子領域が複雑に絡み合い、その結果として多くの表現型を示すということです。例えば、ドイツ語などの正字法がしっかりとした言語使用者でのディスレクシアの種類を見て見ると、流暢さに関連した障害がその多くを占めます。しかしながら、英語や中国語などの話者に焦点を当てると、その割合は低く保たれたままです。このように、ディスレクシアが発現するか否かについては、個々の言語間まで深く遡った遺伝子要因にまで目を向ける必要があるのです。


3. 機械と未来の可能性
未来の科学技術の発展により、出来ることと切り捨てられることが出てくるのは必然の問題といえます。筆者は、読書がもたらす恩恵に焦点を当てつつ、新しいテクノロジーがもたらす変革と時代の流れに警鐘を鳴らしています。

3.1 「より多く、より早く」は善きことか
 著者のウルフは、「より多く、より早いほうが絶対によいという前提には、大いに疑問を抱くべきだ。」と述べています。現代の人々はがコンピュータの画面上に表示される情報獲得の手段に慣れてしまったとき、我々人類がこれまで培ってきた「書記言語に洞察と喜びと苦悩と知恵を見出す能力」はどうなってしまうのでしょうか。もののコンマ数秒で知りたい情報へたどり着くことが可能な検索エンジンの台頭は、メディア・リテラシーの立場からの警告というより、それ以前の古典的なリテラシーの消失をも危惧せざるをえません。書を読むこと、コンピュータを使うこと、社会の流れがもたらした似て非なるこの2つの行為を、取捨選択してゆくのか、共存させてゆくのか、我々の手にゆだねられているという事なのです。

3.2 オンライン・リテラシーの進展から
 また、ウルフはこのようにも警告します。「子供たちの教育に関わるものは、親も教師も学者も政策決定者も皆、子供が誕生したときから大人になるまで、読字プロセスのあらゆる構成要素の準備ないし指導が理にかなった形で、きめ細かく、明示的に行われるよう最善を尽くすべきである。」美しい詞や文学に触れることで味わうことの出来る感動や、冒険記を読んでいるときの登場人物と自分を重ね合わせて胸躍る瞬間などは、検索すれば画面上に瞬時で表示される、一見すると「魅惑的」な情報に見劣りしかねません(私はそうではない、と思うならば、現代でコンピュータ抜きの生活を想像してみると良いでしょう)。そうであるならば、やはり筆者の言うとおり、発達段階のあらゆる箇所において、適切な推論や推敲を用い、自力でものを考える能力を培う必要があるといえます。教育現場、ましてや言語を主体として扱わねばならない英語教育の現場では、自力で考え、ことばを理解して使用する能力を「本当に」見据えた政策や実践がなされているのでしょうか。

3.4 超越して思考する時間
 この本のタイトルにも含まれているイカは、泳げない弱い個体=ディスレクシアの人々のたとえで使用されている。イカはすばやく泳げなければすぐに捕食されてしまうが、人類の歴史では(少なくとも不遇な扱いを受けている人々は今でも存在するものの)しぶとく、時にはその才能を開花させながらディスレクシアという病を構成に伝え続けてきました。彼らの存在意義とは、一体何なのでしょうか。何はともあれ、科学的な解明がされつつある以上、私たちは彼らの素晴らしい潜在能力を守ることを手助けしていかねばなりません。科学の進歩は、脳の適応能力さえかえるポジティブな力を持っている反面、読書という知的レパートリーを増やす素晴らしい行為を貶めるネガティブな力も併せ持っています。著者は、二者択一ではなく、共存する道こそが正しいのだと述べています。超越して思考する時間とは、脳内のニューロンの伝達速度の僅かな差のことを示し、同時にそれは人類の読書の発達の歴史とも読み取ることが出来ます。ディスレクシアがある人々の研究は、読書をするということの本質を探り、来るべき次の時代に向けての準備をすることにもなるのです。

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